2018年09月11日

ストーリーとは、時間をなぞる事ではない

また仕事で「ストーリーになっていないストーリー」を、
押し付けられることになった。

ストーリーとはなにか。
「これはストーリーになっていなくて、これはストーリーになっている」
という最低の条件はなにか。
くだらないものを押し付けられたことで見えてきた。

ストーリーとは、
「因果関係を順に追っていくこと」だ。


たとえば今日あったこと、を例に取ろう。

学校に行って、
授業で寝て、
友達としゃべって、
嫌な奴に嫌な目にあわされて、
でも家に帰ってきたらご飯がおいしかった。

これは時系列だがストーリーではない。


時間順にあったことを並べてもストーリーにはならない、
ということを注意されたい。
これをどうやったらストーリーになるのだろうか。
それは、因果関係をすべてに作ることなのだ。

どうしたら出来るか。

学校へ行った。
授業で寝たので、
ノートをもらうために友達としゃべり、
明日の約束もした。
しかしそれを聞いていた嫌な奴に、
脅迫されることになった。
しかしなんとかごまかして逃げてきた。
家に帰ってきたらご飯がおいしく、
まあ明日も何とかなるだろう。

のようにすれば、
一連の因果関係になるだろう。
ごはんはおいしいなあ。明日の活力だ。
なんて締めくくれば、
それはごはんのCMになるだろうね。


これらの因果関係が繋がっていないのは、
ストーリーではない。

どこかで途切れてしまったり、
原因がないのに結果だけあったり、
理由が示されていない(明示でなくとも、理由が類推されればOK)のは、
ストーリーではない。

一点の原因から始まり、
それらが一連の因果で繋がるものを、
ストーリーという。

先の例でいえば、
最初の一点、寝坊から始まっている一連の因果関係がストーリーである。

出来れば、
その最初の一点が落ちになるのがよい。
この例でいうと、
「寝坊をしないために、飯食ったらすぐ寝た」
と締めくくるのが落ちになるわけだ。

所詮、例なので、面白いストーリーでないのはご容赦願いたい。


しかし、面白いか面白くないかにかかわらず、
ストーリーになっているかどうかは、
結局この因果関係と、
最初の一点の原因が、
最後の結果になっている(落ち)という構造が、
ストーリーの要件だと僕は考えている。

あったことを時系列で書いたってしょうがないのだ。



今日色んな会話をした。
一緒に食事をした。
一歩成長が見えた。

この三行は、時系列ではあるが、ストーリーではない。

成長が見えないと思っていたら、
会話をしたり食事をする部分に、
随所に成長が見られた。

であればストーリーになる。
原因と結果が最初と最後に来ているからである。



つまり、ストーリーとは、
「時系列の解釈」であると考えられる。

私達が、一見ランダムに見えるこの世界に、
因果関係を見出す行為そのものがストーリーを紡ぐことなのだ。
(ストーリーは、「だから」で繋がれるすべてである、
なんて言い方もされるくらいだ)


だから、
因果関係のないものは、
世界の描像、スケッチ、写像、ドキュメントではあるが、
ストーリーではない。

ドキュメントに落ちはない。
ストーリーには落ちが必要だ。

日が昇って沈むのは世界の真実で、ドキュメントだが、
ストーリーではない。
それが人間の一生に似ている、
と思うことがストーリーだ。


つまり、ストーリーとは、
時系列に意味を見出すことである。

勿論、時系列になっていないものはストーリーではない。
「パルプフィクション」は時系列をシャッフルすることで新しく見せたが、
ストーリーに一見なっているようで、
ストーリーではない。
せいぜい、こういう人種はなくらない、
ということをループで描いているに過ぎず、
それは現状維持でしかなくスケッチに過ぎない。

時系列になっていることに、
因果関係と意味を見出し、
それが一連で繋がっていること。
しかも、
最初の原因が最後の結果につながっていること。

たったこれだけのことをすれば、
ストーリーになるのだ。

もっとも、それが面白いかどうかは保証できないが。


しかし。
ストーリーにすることが出来なくなって、
途中からストーリーを放棄することや、
そもそもストーリーが書けないから、
面白いものでごまかして、
ただ表面上ストーリーっぽくしているインチキに比べれば、
ストーリーになっているほうが、
百倍マシであるとは思う。

ただ面白さだけを追及すれば、
実のところストーリーが最高解とは限らない。
音楽やミュージックビデオにはストーリーはない。
スポーツにはドラマティックな瞬間や展開があるが、
意味自体はない。

だから、ストーリーとは、
「世の中にあるおもしろいもの」の、
一部にすぎない、
ということを自覚していることは大事だ。

世の中にある面白いものの中で、
とくに、「時系列と因果関係と意味」に、
特化したものが、
ストーリージャンルが提供すべき独自の面白さである、
ということを自覚するべきだ。

だから、ストーリージャンルが提供するべきは、
人気者が出ているとか、
踊りや音楽がいいとか、
景色がきれいとか、
ではなく、
因果関係が時系列になっている面白さであり、
最初と最後がどういう関係になっているのか、
という面白さのことなのだ。

もちろん、それ以外の人気者や踊りの面白さがプラスされていれば、
ボーナスポイントにはなるが、
肝心の中心部分がなければ、
そしてそれが面白くなければ、
それはストーリーではないのである。

そのことを自覚できているかどうかなんだよね。


プロデューサーは、
ストーリーになっているかどうかなんてチェックしない。
売れるかどうかしか考えていなくて、
ストーリーになっていなくても、
売れればなんだってよいのだ。
(まあそれはバカなプロデューサーだから、
そんな人と長いこと仕事をしてはいけない)

脚本家だけが、
ストーリーになっている、面白いものを提供するのである。


ああ、その問題のものをここにさらしたいが、
各方面にいろいろあるので、
時効になったらさらすかもしれない。



ストーリーにしかないもので、
他にないもの。

それは感情移入(共感と区別して用いている)と、
焦点を追うことと、
最後に明かされる全体の意味であると、
僕は思う。
その構造の根幹が、
時系列の因果関係だ。

理解する言葉としては、まあ分る。
でもどうやって応用するか?
チェックポイントごとに立ち止まって考えればよいかもしれない。
それはストーリーになっているのか?ってね。
なっていないなら、「だから」で繋がれるようしていくとよい。
posted by おおおかとしひこ at 15:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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