また仕事で「ストーリーになっていないストーリー」を、
押し付けられることになった。
ストーリーとはなにか。
「これはストーリーになっていなくて、これはストーリーになっている」
という最低の条件はなにか。
くだらないものを押し付けられたことで見えてきた。
ストーリーとは、
「因果関係を順に追っていくこと」だ。
たとえば今日あったこと、を例に取ろう。
学校に行って、
授業で寝て、
友達としゃべって、
嫌な奴に嫌な目にあわされて、
でも家に帰ってきたらご飯がおいしかった。
これは時系列だがストーリーではない。
時間順にあったことを並べてもストーリーにはならない、
ということを注意されたい。
これをどうやったらストーリーになるのだろうか。
それは、因果関係をすべてに作ることなのだ。
どうしたら出来るか。
学校へ行った。
授業で寝たので、
ノートをもらうために友達としゃべり、
明日の約束もした。
しかしそれを聞いていた嫌な奴に、
脅迫されることになった。
しかしなんとかごまかして逃げてきた。
家に帰ってきたらご飯がおいしく、
まあ明日も何とかなるだろう。
のようにすれば、
一連の因果関係になるだろう。
ごはんはおいしいなあ。明日の活力だ。
なんて締めくくれば、
それはごはんのCMになるだろうね。
これらの因果関係が繋がっていないのは、
ストーリーではない。
どこかで途切れてしまったり、
原因がないのに結果だけあったり、
理由が示されていない(明示でなくとも、理由が類推されればOK)のは、
ストーリーではない。
一点の原因から始まり、
それらが一連の因果で繋がるものを、
ストーリーという。
先の例でいえば、
最初の一点、寝坊から始まっている一連の因果関係がストーリーである。
出来れば、
その最初の一点が落ちになるのがよい。
この例でいうと、
「寝坊をしないために、飯食ったらすぐ寝た」
と締めくくるのが落ちになるわけだ。
所詮、例なので、面白いストーリーでないのはご容赦願いたい。
しかし、面白いか面白くないかにかかわらず、
ストーリーになっているかどうかは、
結局この因果関係と、
最初の一点の原因が、
最後の結果になっている(落ち)という構造が、
ストーリーの要件だと僕は考えている。
あったことを時系列で書いたってしょうがないのだ。
今日色んな会話をした。
一緒に食事をした。
一歩成長が見えた。
この三行は、時系列ではあるが、ストーリーではない。
成長が見えないと思っていたら、
会話をしたり食事をする部分に、
随所に成長が見られた。
であればストーリーになる。
原因と結果が最初と最後に来ているからである。
つまり、ストーリーとは、
「時系列の解釈」であると考えられる。
私達が、一見ランダムに見えるこの世界に、
因果関係を見出す行為そのものがストーリーを紡ぐことなのだ。
(ストーリーは、「だから」で繋がれるすべてである、
なんて言い方もされるくらいだ)
だから、
因果関係のないものは、
世界の描像、スケッチ、写像、ドキュメントではあるが、
ストーリーではない。
ドキュメントに落ちはない。
ストーリーには落ちが必要だ。
日が昇って沈むのは世界の真実で、ドキュメントだが、
ストーリーではない。
それが人間の一生に似ている、
と思うことがストーリーだ。
つまり、ストーリーとは、
時系列に意味を見出すことである。
勿論、時系列になっていないものはストーリーではない。
「パルプフィクション」は時系列をシャッフルすることで新しく見せたが、
ストーリーに一見なっているようで、
ストーリーではない。
せいぜい、こういう人種はなくらない、
ということをループで描いているに過ぎず、
それは現状維持でしかなくスケッチに過ぎない。
時系列になっていることに、
因果関係と意味を見出し、
それが一連で繋がっていること。
しかも、
最初の原因が最後の結果につながっていること。
たったこれだけのことをすれば、
ストーリーになるのだ。
もっとも、それが面白いかどうかは保証できないが。
しかし。
ストーリーにすることが出来なくなって、
途中からストーリーを放棄することや、
そもそもストーリーが書けないから、
面白いものでごまかして、
ただ表面上ストーリーっぽくしているインチキに比べれば、
ストーリーになっているほうが、
百倍マシであるとは思う。
ただ面白さだけを追及すれば、
実のところストーリーが最高解とは限らない。
音楽やミュージックビデオにはストーリーはない。
スポーツにはドラマティックな瞬間や展開があるが、
意味自体はない。
だから、ストーリーとは、
「世の中にあるおもしろいもの」の、
一部にすぎない、
ということを自覚していることは大事だ。
世の中にある面白いものの中で、
とくに、「時系列と因果関係と意味」に、
特化したものが、
ストーリージャンルが提供すべき独自の面白さである、
ということを自覚するべきだ。
だから、ストーリージャンルが提供するべきは、
人気者が出ているとか、
踊りや音楽がいいとか、
景色がきれいとか、
ではなく、
因果関係が時系列になっている面白さであり、
最初と最後がどういう関係になっているのか、
という面白さのことなのだ。
もちろん、それ以外の人気者や踊りの面白さがプラスされていれば、
ボーナスポイントにはなるが、
肝心の中心部分がなければ、
そしてそれが面白くなければ、
それはストーリーではないのである。
そのことを自覚できているかどうかなんだよね。
プロデューサーは、
ストーリーになっているかどうかなんてチェックしない。
売れるかどうかしか考えていなくて、
ストーリーになっていなくても、
売れればなんだってよいのだ。
(まあそれはバカなプロデューサーだから、
そんな人と長いこと仕事をしてはいけない)
脚本家だけが、
ストーリーになっている、面白いものを提供するのである。
ああ、その問題のものをここにさらしたいが、
各方面にいろいろあるので、
時効になったらさらすかもしれない。
ストーリーにしかないもので、
他にないもの。
それは感情移入(共感と区別して用いている)と、
焦点を追うことと、
最後に明かされる全体の意味であると、
僕は思う。
その構造の根幹が、
時系列の因果関係だ。
理解する言葉としては、まあ分る。
でもどうやって応用するか?
チェックポイントごとに立ち止まって考えればよいかもしれない。
それはストーリーになっているのか?ってね。
なっていないなら、「だから」で繋がれるようしていくとよい。
2018年09月11日
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