「半分、青い。」の悪口が、親指シフトで検索してると時々入ってくる。
北川悦吏子氏が親指シフターなので、
彼女の脚本が詰まらないせいでシフターの悪口になっているのは、
かわいそうな風評被害ではある。
ところで、この作品の役名はカタカナ表記なのだそうな。
だからケータイの着信に「スズメ」と出たそう。
これは無理のある表現だねえ。
懐かしいね、役名のカタカナ表記。
これは昔の表現方法で、今はあまりやらない。
何故だろうか。脚本論的立場から論じよう。
役名のカタカナ表記は、
80年代の流行りだ。
このころは外国が憧れで、
みんな外人になりたかった。
「外国」というのはどこかというと曖昧で、
アメリカとパリとロンドンあたりが混じっていた。
少女漫画の描く「外国」だ。
「大草原の小さな家」はスイスの話だが、
ドイツ圏などは意識されず、
「外国」という大雑把なくくりだった。
洋画に出てくる世界が外国で、
それは日本と違う、「別の世界」を意味していた。
(それを笑いに昇華したのが、
「欧米か」のツッコミだ。
外国=欧米=西洋文化と一括りにしてしまう、
日本人の無知を笑えるには、
ここから20年かかったということだ。
「日本に来る外国人観光客」は、
我々の想像する外人=白人ではなく、
中韓が圧倒的だというのは、
爆買い以降ようやく浸透してきた。
中韓も外人なの?ってまだ思ってる節はあるよね)
で。
何故役名カタカナ表記か?
外人になりたかったのが半分。
しかしミッシェルやボブにはなれない。
太郎や花子や権左衛門からは離れたい。
だから、
ミチルとか、ジョージとか、
どっちつかずのカタカナ役名が流行ったのだ。
これはつまり、
「染み付いて後ろから追ってくるリアリティを捨てて、
抽象的な記号になりたい」
という私たちの集合的無意識の反映だった。
だから、
80年代の人物像は、記号的だ。
いかに現実の文脈から切り離して、
記号的な人物になるかを競った。
田舎から出てきたという現実の文脈を隠した、
東京の若者のラブストーリーが流行ったのも、
そういうことだ。
大学デビューで、記号的な男女になりたかったのだ。
これらは大人たちからモラトリアム批判を受けた。
何者にもなっていない時間を延長するのは、
ピーターパン症候群であると。
何者かになるには、何者だったかから始めて、
記号でない何者かに帰着しなければならない。
その全てが土着的で嫌で、
みんなカタカナの記号になりたがった。
これは今でも一部文化として残っている。
モデルに姓がないのはその名残だ。
日本語表記ですらなく、YuriとかMayとかのアルフベット表記のモデルもいるよね。
あるいはバンドネームやダンサーもそうだ。
ギターのJayとかHydeとか、
ダンスとメインボーカルのAtsushiとか。
キラキラネームはその延長にある。
みんな土着が嫌いで、
漫画みたいになりたくて、
それには「外国」(それがもはやどこなのか分からない)への、
なんとなくの憧れがある。
つまり、
みんなこの文脈から逃れたくて、
「もう一つの世界の私」になりたがっている。
それが、カタカナ役名の隠れた集合的無意識だ。
だから80年代の物語は、ふわふわしている。
記号的で、実感を伴っていない。
それをドラマにしたのがトレンディードラマで、
だから現実味のある文脈はなるべく消される。
生活感があってはならないのだ。
これは日本の景気とも関係あるだろう。
成長し続け、夢を見て、
過去からの脱却をし、次の理想の何かを見ていた。
失われた20年、
現在の主流?は、
リアリズムやドキュメンタリズムだ。
リアルな会話じゃないと作り物を感じてしまうから、
人々はなかなかフィクションの世界に入ってこない。
それは嘘くさい世界を作る作り手の責任もあるが、
架空を楽しめないという観客の問題もある。
今は二極化していて、
嘘なら嘘で思い切り楽しませる宝塚のようなものか、
クソリアルなものかだ。
だからトレンディードラマの直系の月9は、
予算低迷も受けてクソリアルな周囲で浮いていて、
しかも夢を見きれない中途半端になっている。
宝塚のようなものの代表は、
たとえば刀剣乱舞だろう。
もはや映像ですらないが。
さて。
ようやく北川悦吏子だ。
「スズメ」という役名があるらしい。
80年代の文化で育った彼女は、
まだ現代にアップデートしていないらしい。
タイムマシンに乗ってやってきたのかな?
バナナフィッシュの時代かよ。
まあそういうので育ったおばさんとおばあさんの間の人が、
今のテレビのメイン視聴者かもしれないけれど。
そんな簡単な記号化は、
今は流行ってないし、
嘘くさい。
しかしツイッターを本名でやってなかったり、
「自分は記号になりたい」という願望は常にある。
名前は名前でしょうがなくあることくらい、
今の人は分かっていて、
だから「スズメ」表記は嘘くさい。
今風の人間の記号化について、
北川悦吏子はアップデートを考え、
そして次の時代の人間の記号化について、
考察を始めた方がよいのではないか?
僕は実際に見ていないが、
大体のあらすじをこないだ後輩から聞いて、
構成が悪すぎると感じた。
こりゃあ漏れ聞こえる悪評もやむなしと。
漫画家の挫折が長すぎるやろと。
見てないで予測するけれど、
うわついた記号化された、
嘘くさいキャラクターの上滑りするドラマが繰り広げられているのではないか?
リアリティ重視の昨今の流行りの真逆で、
新鮮と滑りの紙一重で、
滑りに行っている気がする。
それくらい、役名カタカナ表記は寒いんだよな。今は。
これは脚本を書くとき全般に言えることだ。
役名カタカナは注意した方がいい。
それは作者の記号願望の反映だ。
地に足をついたリアリティを構築できない、
甘えの可能性が高い。
その人がその名前で20年30年40年生きてきた、
「本当にいる感じ」は、
記号化された人物像からは出てこないし、
その「本当にいる感じ」を作ることが、
今脚本家に求められている。
しかし本当の本当を持ってきては冷める。
「本当じゃないのに本当の感じ」が最上だ。
自分の作品で言えば、
ドラマ風魔の小次郎は、明らかに本当じゃない原作なのに、
本当にその役が生きて呼吸して懸命に闘っているリアリティがある。
その塩梅だろう。
2018年09月15日
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