2018年09月15日

描写で強弱をつけるべきか

「痛い」を表現するときに、
バイクから転がり落ちる場面を、
さらに強くしたくて、
腕がもげる、
に変えたとしよう。

これは描写による強弱法だ。

これは正しいのかなあ。


僕は本当に強くしたいなら、
痛いエピソードを創作するべきだと思う。

たとえば、
「彼女を一目見るために、駅でずっと待っていたけど、
いざ彼女がきたら隠れた」みたいなやつ。
今時ならフェイスブックやツイッターやインスタの、
写真を全部ダウンロードしていて、
隠しフォルダに入れているが、
それが見つかってしまったとかね。

これは腕がもげる痛さより、
別方向で痛い。

腕がもげる痛さは想像でしかないが、
このエピソードによる痛さは、
容易に想像できる。

その差だと僕は思う。


リライトで、
強くしたい、という要素があると思う。

なんか物足りないと思う心がそう判断するのだろう。

その時、
描写を強くして満足してやいないか。

3曲練習する、から100曲練習するとか、
高く飛ぶから、ビルを飛び越えるとか、
美味しいと叫ぶから、気絶するとか。

あるものの描写だけ一対一対応で増幅するのは、
強い表現になるだろうか?

それは量的描写でしかない。

質的転換を図った方がいいと思う。


腕がもげるのにするくらいなら、
駅で待ち伏せするくらいの痛さを持ってくるべきだと思う。


思いつかない?
それを創作するのが脚本家だぜ。

3曲練習から100曲練習する場面に変えるなんて、
素人でもできんだろ。
posted by おおおかとしひこ at 11:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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