「痛い」を表現するときに、
バイクから転がり落ちる場面を、
さらに強くしたくて、
腕がもげる、
に変えたとしよう。
これは描写による強弱法だ。
これは正しいのかなあ。
僕は本当に強くしたいなら、
痛いエピソードを創作するべきだと思う。
たとえば、
「彼女を一目見るために、駅でずっと待っていたけど、
いざ彼女がきたら隠れた」みたいなやつ。
今時ならフェイスブックやツイッターやインスタの、
写真を全部ダウンロードしていて、
隠しフォルダに入れているが、
それが見つかってしまったとかね。
これは腕がもげる痛さより、
別方向で痛い。
腕がもげる痛さは想像でしかないが、
このエピソードによる痛さは、
容易に想像できる。
その差だと僕は思う。
リライトで、
強くしたい、という要素があると思う。
なんか物足りないと思う心がそう判断するのだろう。
その時、
描写を強くして満足してやいないか。
3曲練習する、から100曲練習するとか、
高く飛ぶから、ビルを飛び越えるとか、
美味しいと叫ぶから、気絶するとか。
あるものの描写だけ一対一対応で増幅するのは、
強い表現になるだろうか?
それは量的描写でしかない。
質的転換を図った方がいいと思う。
腕がもげるのにするくらいなら、
駅で待ち伏せするくらいの痛さを持ってくるべきだと思う。
思いつかない?
それを創作するのが脚本家だぜ。
3曲練習から100曲練習する場面に変えるなんて、
素人でもできんだろ。
2018年09月15日
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