2018年09月17日

ストーリーは設定ではない

ということを何回言ったとしても、
素人が把握し、説明できるのは設定止まりだ。

何度、設定はストーリーの基盤でしかなく、
そこからどう動くかがストーリーであると説明しても、
Wikiにはストーリーと称した設定が書かれ、
読書感想文には設定の説明が大半を占め、
頭の中で夢想するときはその設定にしびれながら夢中になるだろう。

僕もかつてはそうだった。
しかしいざ自分でストーリーを書くときに、
設定はストーリーではないことを分からないと、
書けないのである。


設定は勿論必要だ。
地面のようなものだからだ。
「現代日本、東京」というような、
「普通の設定」すら、設定には必要である。
勿論、
「人類がスペースコロニーで暮らし始めた宇宙世紀、
そのうちのひとつサイド3は独立を宣言し、地球連邦に独立戦争を仕掛けた。
巨大ロボット兵器、モビルスーツ軍団によって」
でも構わない。

地面のないところに人は立てない。
設定は地面だけど、
そこで「どんな人が何をするか」がストーリーだ。

ストーリーとは、
「人の」「行為」で記述される。
誰が何をするかで記述される。

何かをするからには、目的や動機があるし、
それが失敗したのか成功したのかの結果があるし、
その途中なにが起こったのかという経過があるし、
複数の人が出る場合、
目的やすることが競合したり対立したりすることがあり、
これとどう向き合うか(排除、逃げる、説得、交渉など)
をその人は決め、行動しなければならない(コンフリクト)。
(逆に全く同じ目的の二人のストーリーは、
ストーリーにならない。
確認、納品、の2ステップの段取りしかない。
「出会って2秒で合体」は、
ストーリーを0にする方法論である)

この「複数の人の、行動開始の最初から、
全員の行動終了まで」がストーリーである。

勿論、どういう地面でやるのか、
はストーリーに関係する。

現代日本ならスマホで済むことも、
中世では命がけの旅をしなくてはならないかもだし、
銃のある社会とない社会での行動規範は全然違うだろう。

しかしそれは、
「ストーリーに影響を及ぼす」程度の、
風向きにしかならず、
風が吹いても人が動くわけではないことに注意されたい。


ストーリーは人の動きだ。動かない地面ではない。



また、設定は、実はストーリーの中に複数あることに気付こう。

少なくとも、世界設定はふたつある。
日常世界の設定と、非日常世界の設定だ。
ストーリーとは、
日常世界から非日常世界へ冒険に出て、
日常世界に帰ってくることである。
(何のために、何をしに、かはストーリーによって異なるし、
自ら行くのか行かされるのかでも異なる。
全ては動機、目的で変わってくる)

大抵は一幕の最初の方に日常世界の設定がなされ、
第一ターニングポイントで非日常世界に突入すると、
二幕の前半のどこかで非日常世界の設定がなされる。

そして、私たちが興奮する設定は、
この後者の方の設定であることが多い。
非日常世界に浸ることが、物語を見ることの大きな動機だからだ。

私たちは日常に飽き飽きしているので、
気分を変えたくて「別世界」に行きたい。
その別世界がどういうものかで、
その別世界体験がどういうものか、だいたい決まってしまう。

だから、その別世界設定そのものを、
ストーリーと混同してしまうのだ。

設定はストーリーの一部に含まれるし、
互いに関連し合うから、
それらを分離することは難しい。
しかもストーリーというのは大抵複雑だから、
それを人に説明することも困難だ。

だから、
ストーリーを説明しようとして、
非日常世界の設定を語って、
力尽きるのだろう。

ほとんどの人が設定を語って、そのストーリーを語った気になってしまうのは、
そのようなからくりがあると考えられる。

勿論、
我々ストーリーの専門家はそうではいけない。

主人公の動機、行動、
他の人物の動機、行動、
それらがどう展開するのか、
イコンになる場面の面白さ、
きっかけやターニングポイントの面白さ、
テーマとの関連、サブプロットとサブテーマの完成度、
絵で語れることに集約しているか、
言葉の巧みさ、
ラストでどうテーマを定着させているか、
などなど、
あらゆる要素を分析できて、
把握できなければならない。

これを素人に全てやれというのはハードルが高いことは、
よくわかる。
しかしストーリーを扱う専門家ならば、
これら全てを扱えなければいけないのだ。


これが出来るのは、脚本家だけかも知れない。
自分で脚本を書けないタイプの監督や、
売れるかどうかしか見ていないプロデューサーは、
これらを扱えないと考えたほうが、
議論が楽になるだろう。

だから、共通する点での議論は、設定になってくるだけだ。

設定を議論し始めたら、
「ああ、この人はストーリーを設定でしか表現できないのだな」
と思ったほうが良い。

で。

設定にはいくつかあり、
日常世界の設定と、非日常世界の設定と、
あと人物の設定がある。

結局そこに魅力があるかどうかが、
実はストーリーの魅力以上に、
素人が見る部分だったりする。

違う設定でも同じストーリーを作ることは可能だ。
しかし素人が設定をストーリーと勘違いする以上、
実は設定に魅力を織り込んでおいた方が、
得策だったりする。


そういえば、
最近のラノベのタイトルは、
設定の羅列が増えてきたような気がする。
まあ、そういうことだ。
需要と供給の一致が起こっていて、それはもう袋小路かも知れないね。


その設定面白そう。
それくらいなら、一日10個くらいは考えられるだろう。
(ためしに一ヶ月やってみると良い)
しかし、
そこからストーリーに発展するには、
動機と行動とコンフリクトがないと、
ストーリーにはならないことが分かってくるはずだ。


設定とストーリーの関係について考えたかったら、
名作の設定とストーリーを分離してみると、
わかるかも知れない。

設定をどこまで設定とするか、
線引きが難しい。
事件発生までを設定に含むかどうかがある。
「ロートルボクサーロッキーに、世界戦のチャンスが舞い込む」
は、ストーリーか設定か、難しいところだ。
僕はストーリーの「きっかけ」に含むべきと考えるが、
ここまでを設定と考える人もいるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 11:53| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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