物語を見るための潜在的な動機は、
人生の回答のいくつかが知りたい、
ということがあるのではないか。
偉大なる作家は、人生をこう考えていた、
なんてことを知ることが、
見る者の成長に関係していると思う。
考え方や哲学に影響される、というのは、
人生の見方が一種の答えを与えられたからである。
で、あなたの物語は、そうしているだろうか。
ちなみに、
あなたの考えや哲学を、
「そのまま言葉にして言う」のは、
物語としては最低のレベルだ。
そうしたいなら哲学書や新書や経典でも書くことだ。
現代ではブログやフェイスブックやツイッターがある。
「考えをそのまま出す」のは、そこでやるべきだ。
(もっとも、バズるツイートになる為には、
表現自体が切れていて、
かつ集合的無意識の何かを言葉にするべきだが)
それを直接法というのに対して、
物語のそれは間接法である。
人を信じないがためにひどい目にあった、
というストーリーなら、
「人を信じよう」が人生観、哲学である。
道徳的教訓話というのは、
この構造をしている。
なにか道徳的な教えを諭すために、
物語構造をしているわけだ。
(中世の仏教説話はこの構造で、
道徳はその形を踏襲している。
宗教と物語は同じものだった時代もある。
「エル・カンターレ」がそうかどうかは知らない)
直接的話法よりもさらに高度なことを、
物語ではしなければならない。
あなた独特の考え方、人生観、哲学などを、
直接ではなく、間接的に表現しなければならない。
それは、展開や、世界観(非日常世界での常識など)や、
テーマ(主人公の足りないものが、旅を経て得られる)や、
他の登場人物の変化の方向などで示すことが出来るかもしれない。
いずれにせよ、その考え方、哲学などは、
一文字も使われずに表現される。
だから物語は「深い」のである。
それを言葉に表したときに、
新しい考え方になっている。
その新しい考え方の、具体的実践。具体例。
それが物語である。
「よし、俺様のナイスな新哲学を、
物語形式で広めよう」と考える人は、
多少いるだろう。
それはとても良いことだ。
世界を自分の色で染めたいというのは、
人の願望のひとつであり、
それが有用であれば、どんどん広まるだろう。
(現在は有用でなくても、必要な時が来れば、
発見されて広まるかもしれない。
ただ情報社会が浸透しすぎてゴミが大量に増えたのはたしか。
現代は物理的なゴミの島が消えたかわりに、
ネットにゴミの島が出来ている。
ゴミの島が今どこにできているか探すと、
発展しているところが分かるかも知れないね)
それを物語でやるなら、
間接法でやることだ。
物語の構造を使ってやることだ。
正しいやり方はない。
その示し方から発明しないといけない。
それが出来たとき、
あなたの思想は、伝播する力を有したことになる。
直接話すのはただの説教シーンなので、
詰まらない説明シーンと同じ価値しかないことに注意されたい。
あなたは作家的な見方をしなくてはならない。
人生の新しい見方、考え方を、
提供するのが仕事のようなものだ。
エッセイストなら直接法でよいだろう。
物語作家は間接法で勝負する。
もし、よくできてはいるのだが、
たいして深く来なかったなあ、
というストーリーがあるなら、
そのような、
作家的な、新鮮な、
「人生をどう考えるか」
がなかった、という可能性がある。
なにか物足りない、映画を見た気がしない、
というのは、単なる娯楽以上の何かを、
我々はストーリーに無意識に求めている、
ということかもしれない。
誰かの話を聞きに行って、
有用だったら、今回のトークは有用だった、
と思うだろう。
ただだらだら時間を過ごして無駄にした、
ということなら腹が立つ。
為になるとは限らない。
あまりにもバカでゲラゲラ笑って、
元気もらったわ、でも構わない。
キツくて下らない自分の人生が、
そんなバカが生きてるかと思うと楽になる、
というのでもいい。
それはバカな生き方が新しい哲学ということだ。
物語も人の話を聞くのと同じだ。
教訓や総括や哲学がないと、
だらだら無駄な時間を過ごした気になってしまう。
無駄か有用かの一つの基準は、
新しい考え方に触れられたとか、
その具体的な応用を初めて見たとか、
そういうことだ。
あなたは、その具体例を提供しないと、
物語作家とは言えない。
抽象的なものいいは直接法の説法家に任せておきなさい。
具体的な考えは、抽象的な言葉になる。
抽象的な考えは、具体的な典型例から抽出される。
あなたは後者を、
具体的な物語の中で観客に体験させるのだ。
どうやったらモテるのか。
人生の目的は何か。
二十代でするべきことは何か。
金はどれだけ大事なものか。
どうやったら成功するのか。
世の中には、
そういう人生の回答本が山ほどあふれている。
あなたの物語は、
それよりも面白くならなければならない。
物語の価値とは、その圧倒的具体性にある。
2018年09月19日
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