2018年09月23日

自分の思う自分

自己像というべきか。
自分の思う自分の像と、
他人の認識している自分の像には、
ギャップがある。

それを利用すると、ドラマが作れる。


自信がないのに他人は期待する。
自信があるのに周囲は過小評価する。
誤解がある。
他人の期待する像を演じることで苦しむ。
自己像がわからなくなり、他人の像を受け入れる。
ほんとうの自分をさらけ出し、嫌われる。
ほんとうの自分をさらけ出すことを怖がる。

これは主人公の例だけど、
他のキャラクターでも可能だ。

誤解していた。
本当はそうだったんだと知り、見方が変わる。
(同情、共感、感情移入、親しみ、失望、幻滅、安心、嫌悪など)

などだ。
勿論、主人公は他人であり自分ではないから、
ドラマになるのは、
「誤解や見方が変わる」という動きの部分だ。

物理的な動きがなくても、
心の動きがあればそれはドラマだ。
その心の動きは、いずれ物理的な動きになるのが、
ドラマというものだ。

内面と外面にギャップを作るのは、
キャラクターの魅力になる方法論だけど、
ギャップをどう見せるのか、
いつ見せるのか、
などもドラマとして組むべきだ。
ただの自己紹介ではドラマにならない。


また、
自分の認識する自分は、
過小評価をしていることが多い。
それを適正値まで持ってくることを、
ドラマにすると、
上昇する話になるだろう。

逆に、
過大評価している自己像が、
客観的には大したことなかったと知ると、
下降する話になる。

上昇の後は下降、下降の後は上昇だから、
事件と解決の外面的ストーリーの上昇や下降のあとに、
これらの内面的ストーリーの下降や上昇を繋げると、
ストーリーにうねりが生じるだろう。

焦点を変えてストーリー展開を目新しくする意味でも、
外面的ストーリーと内面的ストーリーの切り替えは、
よくやるテクニックではある。

自己像と客観世界のギャップを、
どう動かしていくのか、ドラマとして組みたいものだ。

(最も簡単なのは、
「俺スゲー」を発揮→みんな「スゲー」
という、「ほんとうの自分を出したら周りの評価が変わった」
という全能感パターンだけど、
それだけでは幼稚なドラマになるだろうね。
もう少し複雑なドラマを組みたいものだ)
posted by おおおかとしひこ at 09:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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