自己像というべきか。
自分の思う自分の像と、
他人の認識している自分の像には、
ギャップがある。
それを利用すると、ドラマが作れる。
自信がないのに他人は期待する。
自信があるのに周囲は過小評価する。
誤解がある。
他人の期待する像を演じることで苦しむ。
自己像がわからなくなり、他人の像を受け入れる。
ほんとうの自分をさらけ出し、嫌われる。
ほんとうの自分をさらけ出すことを怖がる。
これは主人公の例だけど、
他のキャラクターでも可能だ。
誤解していた。
本当はそうだったんだと知り、見方が変わる。
(同情、共感、感情移入、親しみ、失望、幻滅、安心、嫌悪など)
などだ。
勿論、主人公は他人であり自分ではないから、
ドラマになるのは、
「誤解や見方が変わる」という動きの部分だ。
物理的な動きがなくても、
心の動きがあればそれはドラマだ。
その心の動きは、いずれ物理的な動きになるのが、
ドラマというものだ。
内面と外面にギャップを作るのは、
キャラクターの魅力になる方法論だけど、
ギャップをどう見せるのか、
いつ見せるのか、
などもドラマとして組むべきだ。
ただの自己紹介ではドラマにならない。
また、
自分の認識する自分は、
過小評価をしていることが多い。
それを適正値まで持ってくることを、
ドラマにすると、
上昇する話になるだろう。
逆に、
過大評価している自己像が、
客観的には大したことなかったと知ると、
下降する話になる。
上昇の後は下降、下降の後は上昇だから、
事件と解決の外面的ストーリーの上昇や下降のあとに、
これらの内面的ストーリーの下降や上昇を繋げると、
ストーリーにうねりが生じるだろう。
焦点を変えてストーリー展開を目新しくする意味でも、
外面的ストーリーと内面的ストーリーの切り替えは、
よくやるテクニックではある。
自己像と客観世界のギャップを、
どう動かしていくのか、ドラマとして組みたいものだ。
(最も簡単なのは、
「俺スゲー」を発揮→みんな「スゲー」
という、「ほんとうの自分を出したら周りの評価が変わった」
という全能感パターンだけど、
それだけでは幼稚なドラマになるだろうね。
もう少し複雑なドラマを組みたいものだ)
2018年09月23日
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