2018年09月25日

書きたいシーンの理由をつくる

二次創作などでは有効な方法だが、
これを積層するとストーリーになるかも、
という逆算法。


見たいシーンをまず考える。
すごいアクションでもいいし、
せつない場面でもいい。
たいていは、「こういうのが見たかった」
という好みがあって、それをまずはモチベーションにする、
という手がある。

で、「どうしてそうなったのか」
に相当する前日譚を考える。


二人が殺し合うなら、
「何故二人は殺し合わなければならなかったのか」
を逆算して作る。
二人がキスして終わるなら、
「何故二人は、そこに至ったか」
を逆算して作る。

最初から作るのが難しいなら、直前の場面を考えるといい。

殺し合わなければいけないなら、
デスゲームにでも参加させればいい。
あるいは互いにかたき討ちの理由があるとか。

キスをするなら、
二人はもうラブラブの恋人であると設定してしまって、
キスをする理由を探しているだけにすればいい。

その直前までを設定してしまえば、
わりと「その場面」を書くことは困難ではない。

二次創作においては、
萌えの場面こそがメインであるから、
それを出現させるが為の前振りさえあれば、
ストーリーが多少難があったとしても問題ないだろう。
「その場面がある理由」さえあればよいと言える。
(ストーリーの巧拙よりも、その萌え場面がいいかどうか、
がポイントになる。
もちろんストーリーがうまいに越したことはないが、主従でいうと従だろう)

しかし、一次創作(という言葉があるかどうかだが)のストーリーは、
理由→場面、
という1ステップで終わらない。

その理由を引き出す場面をつくり、
その前をつくり、
その前をつくり
……
その最初の場面をつくり、
までやる必要がある。

そのステップ分難しいだろう。
ステップが増えると、等比級数的に難易度が上がる。

見たい場面がもっともテンションが高くなり、
それ以前の場面は理由付けの為だけに存在してしまい、
面白くない場面になってしまいがちだ。

つまり、その場面以前が、「いいわけ」になってしまいがちということ。
人のいいわけは醜いものだ。
そうならないことがベストだ。
下手な伏線が言い訳に見えるのはそういう理屈だ。


前から書いて面白くする方法と、
逆算して理由を仕込んでいく方法。
どちらも出来るようにしなければならない。

前から考えたストーリーの糸と、
後ろから考えたストーリーの糸が、
うまく接触できたとき、
一本の糸になる筈だ。

コツは、その場面以外にも、
書きたい場面を見つけることだ。
一個しか書きたい場面がないなら、
それ以外はテンションが下がる。
複数あるとテンションは持つだろうね。

そのストーリーの代表的な場面はどういうものか、
と自分に質問すると、新しい場面を創作出来るかもしれない。


ところで。
最も見たい場面は、
クライマックスであるべきだと思う。
どこかのシーンで衝動が終わってしまったら、
中折れというものだ。

クライマックスにたどり着くための、
全てが理由だったのだ、
となるのが最高だ。


たとえば「シグルイ」という作品は、
クライマックスの対決から始まり、
どうやってここに至ったか、
と二人の出会いからここまでを延々と語る構造になっている。
問題は、
そのクライマックスが、「どうしても書きたかった」ほど良くないことだ。

途中で「どうしてもこの場面を書きたいのだ!」
という情念を感じる場面が沢山あり、
それがこの作品の最大の魅力であった。

ここまで盛り上がってきたのに、
そのテンションをクライマックスが越えられなかったことが、
この作品の大変惜しい所であると思う。
どうすればこの作品をリライト出来るのかを考えた場合、
クライマックスを最も書きたい場面になるように、
クライマックスをもう一度考え直すべきであったかもしれない。

二人の対決に、
虎眼先生のようなすさまじい場面や、
ぬふうのような恐ろしさとギャグのすれすれの場面や、
片腕を失って復活するまでの執念など以上の、
名場面を作るべきだっただろう。

そういう意味で、
「ベルセルク」のクライマックスで期待されている、
ガッツとグリフィスの対決は、
「蝕」以上にならなければならず、
それは上手くいくのか大変疑問である。
あるいは、「ガラスの仮面」のクライマックスは、
ちゃんと対決できるのであろうか。
この二大「ラストが心配な漫画」は、
「今までの名場面を超えるクライマックスが思いつかない」まま、
死んでしまうのではないだろうかと危惧している。
あ、あと「はじめの一歩」ね。もう駄目だろうけど。


二次創作にも、
そうした優れたストーリーはあるかもしれない。
「一場面とその理由」を1ターンとして、
上手に何ターンも繋いで、
もはや普通のストーリーになっているものもあるかも知れない。
それはもはや一次創作と言ってよいと思う。


さて。

どういう場面を書きたいのか?
それはどうなってそうなったのか?
その経緯は?
それを書くこと。

経緯からその場面に時系列で語ってもよいし、
その場面から始めて、さかのぼって経緯を語ってもよい。

しかしその経緯自体も面白い場面であることが必要で、
その経緯にもいくつか、書きたい情念の場面があると最高だ。
その前の経緯、その前の経緯、
とさかのぼって、
その因縁の最初から書くのがいいだろう。
しかし、
最も書きたい場面が最後にないと、
最後以外の「最も書きたい場面」で力尽きてしまい、
その先は惰性、消化試合になるだろうね。


書きたい場面は、我々の原動力であると言ってよい。
あとは、
書きたい場面のテンションをどう配置するか、
というメタ視点で見れているかどうか、
かもしれない。

そのメタ視点で場面を並べて整理できているかどうかは、
プロットを書き上げたあとにチェックすると良いかもしれない。
実際に場面をどう書くか、
足りないなら足すか、
多いなら引くか、という足し引きを計算する段取りが、
実際の執筆前にあってもいいと思う。


漫画「リングにかけろ」
は、理想的に終われた奇跡的なラストだ。
連載打ち切りと引き延ばしの弊害がある中、
ここまで行けることはなかなかないかも知れないが、
映画シナリオは自由になるのだから、
こうありたいといつも思っている。

「銀河が泣いた! 虹が砕けた!」
に匹敵するような「どうしても書きたい場面」へと、
全てを誘導していきたいものだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:56| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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