「事件がどう解決するか」
「主人公の弱点がどう克服されるか」
の二つをどううまく作るかがストーリー作りだ、
と極論してみよう。
どういう事件がどう起こり、
どういう経緯を経て、
どう解決するのか、は、
メインプロットと呼ばれる、
センタークエスチョンで語られるメインストーリーだ。
これだけでちゃんとできれば問題ないけど、
たいていこれに主人公のサブプロットを合わせて、
重なり合わせることが一般的だ。
重なっている理由は、
メインだけだと物足りない、というのが直感的な理由で、
おそらくは、
この主人公のサブプロットがテーマに直結しているから、
というのが僕の考えである。
それは、主人公に足りないものの提示から始まり、
それをどうやったら克服するのか、
という過程や結果で示すものである。
メインプロットはシチュエーションやモチーフへの「興味」、
主人公のサブプロットは人間への感情移入が関係している。
それが大抵メインプロットの解決と関係あるから、
人は感情移入しつつセンタークエスチョンの焦点に夢中になるのである。
で。
結局はこのふたつ、
「事件がどう解決するか」
「主人公の弱点がどう克服されるか」
を作ることがストーリーづくりである、
なんて極論して俯瞰すると、
メアリースーがどれだけ手を抜いているか分るというものである。
メアリースーは、この二点を、
「なぜか周りが解決してくれる
(または主人公の最強能力で一瞬で解決して、過程は描かれない)」
「主人公は弱いものをさらけ出した結果、なぜか周りがそれを認めてくれる」
という、
ふたつのご都合主義にしてしまう。
こここそがストーリー作りの創作ポイントであるのに、
そこを手抜き工事していることにとても無自覚なのが、
メアリースー患者の特徴だと言える。
それは、ストーリー作りに自己承認欲求を反映させて、
俺つえーと気持ちよくなっているだけだから、
というのが理由だ。
客観的に、そこまで抜けきれていない、とうか。
これは指摘してもなかなか難しい部分で、
もはや精神の病のようなものだから、
精神の病とおなじで、
自覚して自力で克服しようと思わない限り、克服できるものではない。
表現は他人へのプレゼンであり、オナニーではない、
ということを自覚しない限り、
この精神の病に自覚的であることは不可能だろう。
逆にいうと、
「事件がどう解決するか」
「主人公の弱点がどう克服されるか」
に関して、
面白い二つのストーリーを組み上げ、
それをクライマックスで交差するように組むと、
そのストーリーはストーリー足りえる形になると考えられる。
勿論、それらが短絡せずに、
徐々に解決に進んでゆく、
過程の面白さを描かない限り、
短編しか書けないだろう。
長編の物語というものは、
その過程が面白くないと面白くないものだ。
そこにベタな展開や、意外な展開、
複雑な展開、シンプルに集約する面白さなど、
複合的な面白さや構成的面白さがないと、
面白い中盤にはならないだろう。
もちろん、リアルで、御都合主義に陥らず、
しかも希望が見えるようなものがふさわしい。
そこに皆工夫と苦労を重ねるわけで、
メアリースーがそれをまったくやっていないことは、
非難しすぎてしすぎることはない。
極論すると、二本のストーリーさえ組めれば、
ストーリーになる。
勿論、
主人公以外のサブプロットが何本もあり、
それも面白いことになっていないと、
「本格的に」面白いストーリーにはならないだろうが。
ストーリーはそのような編み物で、
メインの糸が二本あるよ、というものに過ぎない。
さて。あなたのその二本はどういうものか、
短く言えるだろうか?
それがちゃんとできていれば、
面白いストーリーの基盤は出来ていると確信してよいと思う。
逆にいうと、どんなに面白い「部分」を持っていても、
そこが駄目な糸のストーリーは、糞なわけだ。
2018年09月25日
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