2018年09月27日

俳句をたまに研究するのはいいことだ

昔詠んだ秋の句がある。

 風呂の温度を二度ほど上げて秋来たる


これをネタに、表現のことについて色々考えてみよう。


表現には、
「なにを表現するのか」
「どうやって表現するのか」
の二種類がある。

前者を中身、後者をガワなどという。

中身でいうと「秋が来た実感」というようなもので、
もう少し豊かに書くと、
「寒いなあと思って、
無意識に風呂の設定温度を二度くらい上げてみて、
入ったらあったかかった。
本格的に秋が来たのだなあと、
そのことで実感した」
という発見を詠んでいるわけだ。

さらにいうと、
「都会では秋の到来を感じることは少ないけれど、
こうしたメカ的なものでも秋を感じることは出来る」
ということも含んでいる。


さて、試しに言い方を変えてみよう。

 秋来たる風呂の温度を二度上げる

秋と風呂が直接因果関係で結ばれてしまう。
風呂の温度を上げたあとに、「あ、秋なんだ」
と思った発見の部分(それが主題)が失われてしまう。

物事を逆順にしただけでこうなってしまう。


 暖かい風呂で秋を実感する

「二度ほど上げて」という無意識感がないと、
割と普通に言っただけになってしまう。

「ほど」も効いていて、

 風呂を二度上げて都会に秋来たる

なんて正確に二度にしてしまうと、
なんだか機械的で面白くない。
無意識に二度くらいがいいかな、
という本能的な部分に遅れて理性が理解した、
発見の部分がなくなってしまうわけだ。


 秋来たり二度ほど上げた熱い風呂

これは本来の時系列を倒置してみた例だ。

秋の風景が先に頭のなかで想像される。
田舎暮らしを始めた人ならこれも良い。
僕はコンクリートジャングルに住んでいるので、
あんまり良い秋の光景に会っていない。
それでも風呂で実感する、
ということになっていないので、
倒置しただけで内容が変わってしまう、
という例になる。

もっとも、内容をちょっと変えてでも、
最終上がりが良い方を取ればよい。

中身とガワの関係について、
今回は色々試行錯誤して考えよう、
という趣旨である。


 風呂の温度を三度上げて秋来たる

三度は多いような気がするね。
「二度ほど」はわりと効いていることが分かる。


 夏が行く風呂の温度を二度上げる

去りゆく夏への想いにしても、
内容は同じだけれど表現の味わいは異なる。
普段の夏だったらこれもありだが、
今年の夏は殺人的だったので、
去りゆく夏への想いがないので、
この案は却下かもね。

時系列をずらすのはテクニックだ。

逆から見れるかな。

 風呂の温度を二度上げたのは秋だった

主語を秋にしてみた。
これはこれで内容的にはありそうだが、
表現がこなれていない。
もっと洗練させることはできそうだ。

 風呂の温度を元に戻して夏が行く

夏主語にしてみた。
「元に戻す」という視点を加えてみた。
今年の夏暑かったなあ、
という記録にはなるけど、
やや文脈依存すぎるかな。
普通の四季としては実感が薄い。



テクニックがある。
時系列をずらす、逆から見る、
順序を逆に(倒置)、見かたを変える、
などである。
増やす、減らす、などもある。

ある表現がなぜそれなのか?
他のものよりなぜ優れているのか?
そう考え、評価できるのは、
すぐにこれらのテクニックで表現を変えてみて、
たしかにベストであると確認することで、
可能になると思う。

逆にいうと、
すぐに変形を想像できない評論家なんて、
評論する資格なんてないと僕は考えていて、
「こっちの方がいいじゃん」と、
いい変形が出来る人は、
評論家か作家に向いていると思う。

で、
その評価軸は、
内容そのものの評価と、
表現の評価があって、
たしかにベストマッチである、
という上の視点があり、
さらに歴史的な文脈での俯瞰もあると思う。

あなたの表現は、
これらの試練を経て、
人前に出ているだろうか?

ないなら、
ちゃんと訓練した方がいい。
ベストを出せ。

ただ思いついたものだけ記録したって、
表現にはならない。
その記録はネタでしかなく、
洗練を経ていない。


それには、
すぐに変形できるだけの力がないといけないし、
それらを正しく評価できる目がないといけない。
どちらも必要なものだ。

俳句は短くて、その訓練に良いよ。
季節がちょっと変わればネタには困らないし。
posted by おおおかとしひこ at 13:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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