客観的速さは、長文を何分で何文字書けるかで、
測定することが出来る。
コピーか創作か、内容の濃い薄いはあれど、
数字で出せて「〇文字/〇分」の形式をしている。
しかし実のところ、
「主観的速さ」、すなわち、
「思った言葉が字として定着するまで」
が大事なのかもしれない。
思う
→配列を操作する(打ち方をイメージして指を動かす。そのうち無意識化)
→変換して候補を選び確定する
という一連において、
思ったことが文字になるまでの速さは、
カナ配列はローマ字より勝ると思う。
ローマ字は打鍵数で最終までのリーチが遠くなる。
カナのほうが音声と一対一対応だ(配列による)。
「思考が一度に届く」という主観的速さはつまり、
カナ配列が一歩リードしていると思う。
親指シフターのいうところの「脳内ローマ字変換」は、
思考が一度に届かないもどかしさを言っているように思う。
実のところ配列に慣れてくると、
一単語が一連の運指に対応してしまい、
脳内変換とかは消えてしまっている。
しかし、「思考が一度にデジタル原稿用紙に届く」
という主観的感覚は、
カナ配列のほうが速いと思う。
ステップ数が少ないからだろう。
親指シフトはほんとうに速いのだろうか?
その「速い」は、
客観的速さ、つまりタイプウェルのランクとか、
動画で見える速さなのではなく、
「自分の脳から文字までの速さ」
という主観的な速さのことなのではないか、
というのが、ずっと考えてきたことの結論のような気がする。
脳の直結度合いは、客観性がない測定不可能な領域なので、
主観的感覚しかない。
親指シフトがローマ字より、
脳に直結している感覚の人がたくさんいるから、
親指シフトは支持されているんではないか。
その直結する感覚というのは、
ある程度配列に習熟しないと出来ない感覚だ。
その練度を複数の配列で練れるほど、
私たちは優秀ではないし、そのモチベーションもないのだろう。
せいぜい慣れた二つ程度の配列をもって、
(それは必然Qwertyローマ字ともう一個なにかになる)
主観的比較をすることになるだろうね。
だから、
親指シフトは(主観的に)速い。
(客観的に速いとは限らない)
新下駄と比べて速いとか、
飛鳥と比べて速いとか、
薙刀式より速いとか、
シフターは分らない。
自分の感覚として速いし、
その速さを超えるかもしれない配列の練度を、
新しくあげることには興味がない。
つまり親指シフトは袋小路に入っていると、考えられる。
主観的には速いだろう。
でも客観的に速いとは限らない。
これが親指シフターが動画をあげてどや顔しない理由ではないだろうか。
それにしても、
飛鳥や新下駄の使い手がそこそこ速い動画をあげてもいいのになあ。
月でも新JISでも蜂蜜小梅でも、キネシスでのTRONでも、
その他なんでもいいけど。
結局、対自分の思考での速さを問題にするわけだから、
客観的な動画なんていらないのかもしれない。
それでも、スムーズにどんどん入力されていく入力動画は、
その配列をやってみようかという人にとっては、
刺激になるし励みになるし、教科書になると思う。
そういう憧れになるような動画を撮ることが、
21世紀の配列作者に課せられていることかも知れないなあ。
(たびたび言ってますが、動画つくりまっせ。
交通費そちらもちで、ノーギャラでやります)
自分としてはものすごく速いつもりなのに、
カメラで撮ってみてたらたいして速くないことに気づいたりすることがある。
動画は鏡を見ることに等しい。
主観と客観はまことに異なるもので、
彼我の差を自覚するまで、
シフターは興味がないのかもしれない。
主観の城から出てきて、客観の土俵で相撲を取ってみればいいのに。
それでも「(自分比で)すっごい速いんです」
は言えることだからね。
ちなみに薙刀式は、僕の主観的にはすっごい速い。
客観的には、
僕のQwertyローマ字の530字/10分の倍以上速い。
1200字/10分くらいは日常的だ。
(実際このへんになると、思考速度のほうがボトルネックになってくる)
自分の速さの感覚を他人と共有するなら、
数字という客観指標しかないよね。
薙刀式は主観的には超おすすめで、
客観的にもなかなか優良物件だ。
Qwertyローマ字でも1200の人はざらだけど、
総打鍵数は1/1.2、
総アクション数は1/1.7になるので指が楽になる。
使用分布も小指薬指が計20%と長文向き。
主観的には、
清濁半濁小書き拗音外来音同置なので、
脳の注意を配列ではなく内容に振り分けられる。
つまり、集中できる。
脳内発声がやみ頭が静かになる。
2018年09月28日
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