それにつられて人は入ってくる。
面白バトル、恋がたっぷり詰まっている、凄いやつの世界、
迫力のあるスポーツ、事実をもとにした奇跡的話、恐ろしい話。
見たこともない不思議な世界の話、
宇宙人とか幽霊とかロボットとか。
SF、侍、悲劇、喜劇、歌とダンス。
なんでもいい。見たことのある強力な誘引力のある世界が欲しい。
そして、微妙に見たことがない部分があって、
それが新規性があるという部分で、
つまりは「新世界に我々は浸れる」という保証も欲しいわけだ。
これはプロットいう骨格とはまったく違う、
世界設定やコンセプトと呼ばれるパートの創作である。
どういうジャンルにするかとか、
どういう世界観がいいかとか、
どういうコンセプトで作るかとか、
そういう、プロットとは独立で作るべき部分である。
ちなみに内容を見ないプロデューサーは、
この部分しか見ずに、
行けるいけないを判断したりする。
「いけちゃんとぼく」は、
僕は「現実逃避に想像の世界に逃げて居た子が、
現実に立ち向かう話」として第一稿を書いたが、
「子供がお化けと別れて、それが〇〇だったんだ、という話」
というコンセプトしか了承されていなかったため、
「ノスタルジックな世界観で、あとはラストで泣ければOK」
みたいなチェックポイントしかなく、
「予算が1億なくなったので、
CGカットを半分に減らしてください」
という無茶苦茶な注文を平気でしてきた。
「現実世界と想像の世界の対比」の半分がなくなるなら、
プロットは全然違ってしまう。
しかし話でなく世界観やコンセプトしか有効でなかったがゆえに、
苦労するのは脚本を書く僕一人で、
それは全然理解されない努力になるわけだ。
(そしてそれは話し合いの亀裂になり、
不信になり、決裂の原因になる。
無理解が原因であると僕は分っていなくて、
なぜこれが大変であるか分っていない、
ということに気づくのは、作業も後半になってからだ)
逆にいうと、
(あほな)プロデューサーは話なんて見ていない。
それがどういうジャンルか、くらいしか見ていない。
「子供が成長して〇〇と別れる話」
という、夏休み映画くらいにしか見ていない。
だって彼は「クライマックスの野球シーンを全カットしてはどうか?」
って言ってきたんだぜ。
いまだに信じられないよ。
だから宣伝が下手で、興行的には微妙で、
内容が手術跡ばかりの映画になったと僕は分析している。
話がそれた。
「魅力のあるジャンル」というだけで物語を見る人は、
たいへん多い。
極端な例は、
「ラブストーリーならなんでも見て、
ホラーは怖いからと言って見ない女」
を思い浮かべれば理解できるだろう。
その女はストーリーを見ていない。
ジャンルを見ている。
ストーリーを楽しむのではなく、
そのジャンルに二時間、体をひたすことが、
物語を見る目的だったりする。
たとえるならば、そういう風呂に入るだけだ。
そういえば、風呂で本を読む
(漫画、動画も)のは、
男より女のほうが圧倒的に多いように思う。
(経験による統計なのでほんとのところは分らない)
その「物語世界」に浸るだけで満足する人は確実にいて、
だから同じものをリピートしたがることもある。
同じ風呂に入りたいのだろうね。
僕は「物語とは変化である」と、
プロットやテーマのことだと考えているから、
あまりリピートすることはない。
だって一回見れば、
その大事な所は受け取ることが出来るから、
同じことを二回言われる必要がないからだ。
そもそも二回見ないと理解できないのは物語として失格だし。
これは、
同じ映画でも、
見られ方が両極端に二種類あることを示唆していて、
映画はどちらにも対応しなければいけない、
ということを意味している。
ようやく本題。
僕は今までプロット至上主義で、
それだけをとにかく作れ、と言ってきた。
しかしそれだけでは実戦には足りないことを、
あまり忠告していなかったので、
この記事を書くことにした。
プロットが仮にすごくよくできていても、
実際の原稿はプロット以上のことをしなくてはならないことは、
あまり書いていなかった。
セリフの妙やビジュアルはガワに属するので、
ガワは才能である、
なんてことで訓練する意味はあまりないと思っているからだ。
だが、ガワが不要であるとは言っていない。
ガワに気を取られて、中身がおろそかになることを意味がないと糾弾しているだけで、
ガワがいらないとは言っていない。
中身がちゃんとあれば、
魅力的なガワを創作するべきだ。
その世界に浸りたくなる、
いい風呂を用意するべきである。
莫大な予算があればそれは可能だ。
しかし実際のところ、バブルでない日本の予算組で、
少ないお金をどういういい風呂にするかは、
なかなかに難しい問題をはらんでいる。
だから、新しい風呂を発明した人には、
おそらく報奨金という名の仕事がバンバン舞い込むだろう。
たとえば僕がクレラップでレトロキッチュな世界観を作ったとき、
バンバン仕事が来た。
全部子供もので、クレラップのようにしてください、
という依頼だった。
つまり僕は、
レトロキッチュなガワ職人として思われたわけである。
それは描きたい内容のある、プロット職人としてつまらんと思って断った。
やっていたら、同じ世界観を作り続けて、
飽きられて監督生命が終わっていたと思う。
そういうわけで、
あなたはどういう世界観の、どういう話を書くのだろうか。
プロットが出来たとしても、
実際の執筆では、
その世界観に浸ることが快感であるように書けていないと、
執筆としては落第である。
で、世界観に浸るほうが快感で、
プロットを構築することが苦痛だから、
世界観に逃げることを僕は糾弾しているに過ぎない。
実際の執筆では、
快感に浸らせるように書くのが最上である。
つまり、
世界観が快感で、内容があるのが理想で、
世界観が快感で、内容がないのがくそだということ。
両方が出来ているように二兎を追わなくてはならない。
最悪内容だけできていれば、
世界観は誰かガワ職人がつけてくれる、
という仕組みになっているので、
逆に内容を書ける人は世界にそんなにいない、
ということになるわけだ。
プロの世界には、
この世界観にあうストーリーだけ考えてくれ、
なんて失礼な依頼も沢山ある。
キャラクターと世界観が出来上がっているが、
エピソードやテーマが足りない、
なんてのはいくらでもある。
ヒットしたシリーズ物のつづきとかね。
それは逆順なんだ、といくら主張しても、
脚本家はカンタンにストーリーを作れる、
魔法使い扱いされていることが多いから、
脚本家は一生理解されないわけだ。
自分のオリジナルを書くときは、
中身が優先だ。
それが出来たら、
とびきりの風呂をつくりなさい。
情報感度を上げて、いい風呂をいつも探しなさい。
内容にふさわしい、
新しい風呂を作れた時、
その風呂に浸りに来る人がリピートするだろう。
風呂だけ作りたい人は、
監督だけやり、脚本など書かないことだ。
漫画でいうと、絵師と原作を分けるということだ。
(さらに世の中には設定屋といって、
世界設定だけを作る人もいる。
メカニックデザインだけ分ける、みたいなこともあるしね)
どんな要素分解があったとしても、
最後の執筆は、総合力になる。
どういう風呂になるか、
どういう中身になるか、
両方できて、売り物になる。
どうせ脚本が読めない連中が、
「いい風呂だねえ」なんて言っているのを見て、
舌を出していればよい。
僕は昔から脚本が読める人と仕事をしたかったのだが、
どうやら脚本が読める人、
つまりガワと中身を分離できる人、
つまりこの中身にはこういうガワがいいんじゃないか、
と読解して提案が出来る人、
を探していたが、
そんな実力者はほとんどいないことに気づいた。
いないなら、
風呂職人の顔をしたほうが世渡り出来るかもしれない。
もっとも、
ただの風呂職人になってはいけない。
2018年09月28日
この記事へのコメント
コメントを書く