2018年09月29日

量産を妨げる理由

何本も作れる?
僕は短編をたくさん書くことを奨励している。

それにはいくつか理由があるけれど、
今回は「世界観をいちいち作らなくて良いから」
の観点から議論しよう。


前記事で風呂を新しく作らなくてはならないことについて、
述べてみた。

プロットと世界観は、別々に作ることが可能だ。
最終的には不可分なものに融合していく。

その世界観ならではの生き方、
その世界観ならではの常識、
その世界観ならではの対応、
その世界観ならではのこれからありそうなこと。

その世界観を作り込めば作り込むほど、
それはオリジナルなものになってゆく。

で、それが良くできていればいるほど、
「そんなに何個も面白い世界観を作れない」
という限界が出てくる。

それが量産を止める。
(そのシリーズだけは作れるが、
新しいシリーズを作ることが難しくなる)


たとえばトールキンの指輪物語の設定や世界観は、
全てのドラクエ的なファンタジーの原点だ。
そもそも西洋の伝説やおとぎ話などを集大成したものではあるが、
「その独特の感じ」は、
以降の全ての剣と魔法の世界に影響を与える。
言葉を変えて極論すると、
トールキン以後のファンタジーは、
トールキン世界観の中のバリエーションでしかない。

車田正美は「リングにかけろ」で、
主人公が強くなってゆく、
必殺技をマスターして強くなる、
という70年代の少年漫画の基本スタイルに、
敵のインフレ、
最初の宿敵がいてそれは本当の友となり、ラストにはそいつと戦う、
5人でのトーナメント制、
死んだと思っていたが、生きていた、
などの要素を加え、
見開きドーンや「なにい!」「フッ」という様式美を持ち込み、
「ジャンプ漫画」の基礎を作った。

以降のジャンプ漫画はほとんど、
この世界観のバリエーションにすぎない、
と僕は思う。

能力バトル漫画、という世界観のジャンルを、
車田正美は作ったと言っても過言ではなく、
以降のそのジャンルはすべてその変形である。

ひとつ型をつくる、
ということに近いかもしれない。

で、
人はそんなに型を作れない、
ということを言おうとしている。


たとえば「はじめの一歩」の森川ジョージは、
一歩的世界観を持っているが、
仮に連載が終了したとして、
「全く別の世界観」を作れるだろうか?
僕は無理だと思うんだよな。

「バキ」の板垣恵介は、
「メイキャッパー」を描いたけど、
面白い世界観を構築はしたが知られていない。
「どげせん」も僕はおもしろいと思う。
しかしあまり知られていないのが残念だ。

彼のように、
いくつもの世界観を作り続けられる人は、
稀だと僕は考える。


逆に、複数ヒットを出した作者は、
たいてい、
「この作品とこの作品は繋がっています」
をやりたがる。
「同じ世界観を共有する、別のプロット」
にすぎないことになってくる。
それは逆から見ると、
「全く違う別の世界観を作ることは難しい」
ということになってくるわけだ。



ひとつの世界観を作ることは非常に楽しい。
箱庭療法の効果もある。
「その世界で永遠に遊びたい」と誰もが思えば、
それは大ヒットシリーズになる可能性もある。


で、警告しておくと、
・複数の世界観を構築することは難しい
・世界観とプロットは別物
であるということだ。


プロットは世界観と分離して作ることができる。
プロットは量産可能だ。
しかし世界観は量産可能ではない。
だから、
プロットと世界観を分離してつくる習慣を身につけていないと、
「ひとつ作ったら次を作れない」
ということになってしまうのだ。

だから短編をたくさん書くことを、
僕は奨励している。

大抵の短編は、「いまここ」の現実を舞台にすれば良いからだ。
あるいは、時代劇やファンタジーにするにしても、
世界観を作り込む必要はなくて、
「雑に扱える」からだ。

違う話をどんどん書くということは、
「前の話を捨てる」ことが出来るかどうかにかかっている。

「現代、そのへん」を舞台にすれば、
それは世界観を共有してることにはならないだろう。
特殊世界ではないからね。

時代劇、ファンタジー、SF、みたいに雑にジャンルを扱い、
書き捨てていければ、
おそらく考えうる全ジャンルを使って、
短編ぐらい書くことが出来るだろう。

そのうち得意な世界観が出てきて、
深掘りしたくなるものがあるかもしれない。


ファンタジーしか書けない人なども世の中にはいる。
ラブコメしか書けない人もいる。
ミステリー専門の人もいる。
その人は、わりと初期に世界観を固定してしまい、
その中でやっている人だ。

僕は、どんな世界観でも書けるべきだと考えている。
あるいは、
自分の得意な世界観を知り、
別の世界観でやっても意外といけるぞ、
を発見するべきだと考えている。

その膨大な試行錯誤をやるのは、
デビュー前しかない。


手塚治虫は基本はSFだけど、
色んな世界観にチャレンジした稀有な作家だ。
本格長編はほとんどない。
短編ばかりだから出来たことだと思う。

短編だから爪が甘くてもよい。
短編だから深く突っ込まなくてよい。
短編だからキレが重視だ。
短編だから、プロットを量産できる。
短編だから、次やるのは別ジャンルにできる。

こうして自分を鍛えることを、
手塚はずっとやっていた。

だから手塚治虫の漫画は、
プロット、すなわちストーリーが面白いのだ。

絵や世界観よりも、ストーリーが前面に出ているのだ。


晩年、大友克洋の「絵」だけ見て、
手塚治虫は敗北を認めたという。
しかし結局大友克洋は、アキラの世界観だけ作って、
終わってしまった。
漫画家というより絵師になってしまったね。



勿論絵師や風呂職人になりたければその道へどうぞ。
しかしストーリーテラーの能力を磨きたいなら、
そのトラップに足をとられないことだ。

プロになって、
ひとつヒットを飛ばしてしまったら、
その世界観以外をやるにはすごく勇気がいる。
そのイメージでしか人は見ない。
当たり役と同じようにね。

華麗に転身しないと、そのうち飽きられる。
その時モノを言うのは、
プロットの量産力であることはたしかだ。



短編をたくさん書け。
どんな話でも作れて、キレ良い落ちをつけられるようにせよ。

書いて、捨てろ。
それが次の話を連れてくる。

その進化サイクルを速めるのは、短編だ。
ダメージも少ないし。
posted by おおおかとしひこ at 09:44| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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