今朝のコメント返しに関して興味深いので記事化しておく。
アドリブには二種類ある。
台本を渡されてから本番までに考えてきたものと、
その場で思いついたものだ。
日本では前者を役作りや演技プラン、
後者をアドリブという傾向がある。
「台本に書かれてない演技」をアドリブと定義するなら、
両者ともアドリブである。
これらはよく混同される。
台本を渡されてから考えてきたものは、
現場で修正しなければならない。
なぜなら、想像と現場が違うことがあるからだ。
ドアを使おうと思っていたら引き戸だったとか、
タバコを使おうと思ったら禁煙だったとか、
窓を見てからその景色を使おうと思ってたら窓がないとか、
人間の立ち位置が違ってて向きが逆とか、
建物の配置が違うから動線全部違うとか、
その仕草がやりにくい衣装だったとか、
録音部のマイクの位置が、その芝居のできない位置とか。
あるいは、相手役にもそうやって用意したものがある。
打ち消しあったり、かぶったり、
相乗効果になればいいが余計だったりする。
冗長になりすぎたりね。
監督は指揮者として、それらを修正したり整理する。
その為には台本の深い理解が必要だ。
この人の動機は何か。
何が目的か。
何のためにそれを言い、して、
何を期待や予測していて、
相手をどう思っているのか。
まず役者の考えてきた演技プランが、
台本から遊離している時、
どこまでを良しとするかを判断しなければならない。
違っていたら間違いで、こうだと正すべきだ。
(解釈の違いで揉める、というのはここだ)
あるいは、仮にずれていたとしても、
面白くなったり良くなったりするのは歓迎だ。
パーフェクトでない台本は、
これによって化けたり深くなったりすることもある。
つまり役者に助けられる。
もちろん、やり過ぎなどの過不足をコントロールするのは、
指揮者たる監督だ。
オーケストラの指揮と同じで、
一つの楽器が目立っては全体が台無しになる。
しかし各楽器が機械のように演奏するのだったら、
人間がやる意味がない。
その塩梅を決めるのが現場だ。
演劇の場合は稽古期間が数週間設けられるので、
それをたっぷりやる暇がある。
しかし映画は撮影が数週間あるので、
稽古しながら撮影するという習慣になっている。
ハリウッドならば、数週間稽古+現場数週間だから、
もっと芝居を練れる。羨ましい。
だからキムタクみたいに同じ芝居をする人は、
大根役者としてバカにされる。
役者の時間は、つまり、
一人で考える時間と、
現場で調整する時間の、二つがあるわけだ。
タレントならば、「ひとつのタレントの型」に入っているかどうかを、
考えるだけで良い。
キムタクや昔の小倉優子あたりがわかりやすいか。
そういうキャラを演じているわけだ。
役者は、仕事のたびにそのキャラを作る職業だ、
と言っても過言ではないわけだ。
もっとも、役者にも「当たり役」というのがあって、
それを世間から期待されたり、飽きられたりする。
その辺をどう取捨選択するかも、
役者や監督の仕事である。
で、
脚本論に戻るけれど、
それらのガワは、役者や監督が考えるから、
そんなもの台本で指定する意味などないのだ。
間の秒数や、目線の位置や、手の位置や、姿勢や、
気持ちをこのように表現するとか、
今の気持ちはこうであるとか、
一々書く必要がないのだ。
書かれるべきことは、
何を言ったか、何をしたかであり、
それによって、ありありと、
「何が動機や目的で、何を期待していて、
好きか嫌いか、どういう事情でここにいるのか」
が「書かなくても読み取れる」ものである。
それが優秀な脚本というものだ。
優秀な脚本は、
文脈とセリフだけが書いてある。
座ってるか立ってるかも分からない。
文脈が関係ないなら、どっちにしても良いのだ。
(取調室なら座ってないとダメとか、文脈に依存するわけだ)
実際、座ってるか立ってるかなんて、
あとあとの芝居を活かすために決めるものだ。
(樹木希林の例で言えば、全員着席スタートでもいいけれど、
ケーキに注目させるために、
後から一人だけケーキを到着させているわけである)
素人の脚本ほど、
書く必要のないものまで書いてある。
それは、
「俺の想像した話を、想像したように演じること」
が芝居だと勘違いしているわけである。
だとしたら、あなたはアニメーターに向いている。
そうではなくて、芝居はみんなで作るものだ。
複数の自我による、思いもしなかった発想に出会い、
それらをアンサンブルとして組むことが、
芝居の醍醐味なのである。
だから役者はその為にアドリブを用意する。
ひとつには、この監督はこの台本をどう考えているか試すため。
ふたつには、周りの役者はどう考えているか試すため。
とくに演劇慣れした役者はそうする。
映像の場合、カット割りがあるから、
そこで文脈の意味が限定されるので、
演劇よりは幅が狭い。
また、ダメな台本は、
どうとでも取れるものにしかなってなくて、
アドリブでかわしてください、となっているものだ。
それは職務放棄である。
そういう台本が来たら、役者は抗議の意味で、
しっちゃかめっちゃかにしてしまう。
「俺が一番目立てば得できる」と。
(勿論自分が一番目立ちたいだけのバカ役者もいるが)
これらの芝居の醍醐味を知って、
台本は書かれるべきなのだが、
そんな経験が出来る脚本家はなかなかいないので、
それを学ぶのは現場しかない。
もしあなたが学生だったら、
学生劇団のところにお邪魔して、
台本が上がった瞬間から、
稽古時間から、本番から反省会まで、
付き合わせて頂くととても勉強になる。
映画系は役者がそこまで出来てないので、
あんまり参考にならないね。
台本も映像重視でちゃんと出来てないことが多いし。
台本には何を書くべきか、
台本には何を書くべきではないか、
台本にはどういう伸び代や隙間があるべきか。
その呼吸が分かってくると思う。
あなたが学生でなかったら、
お金を払って参加するワークショップや、
スタッフに直談判して頼み込めば、なんとかなるかもしれない。
「脚本家を目指しているんです」と言えば、
忙しくなければある程度は親切にしてくれるだろう。
基本的には、こういうことは盗むしかない。
何を考えてこの文字を書いたのか、
ありありと読み取れる台本がベストだ。
いい台本は、つまりは、役者がアドリブしやすいように、
動機と言動だけが書いてあるものである。
「やりやすい台本だった」と希林さんに言われて、
今も自信のひとつになっている。
台本は皿とレシピで、
材料や調理や盛り付け方は役者やスタッフだ。
監督は全体を統御する。
2018年09月30日
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