2018年09月30日

アドリブには二種類ある

今朝のコメント返しに関して興味深いので記事化しておく。

アドリブには二種類ある。
台本を渡されてから本番までに考えてきたものと、
その場で思いついたものだ。

日本では前者を役作りや演技プラン、
後者をアドリブという傾向がある。

「台本に書かれてない演技」をアドリブと定義するなら、
両者ともアドリブである。
これらはよく混同される。


台本を渡されてから考えてきたものは、
現場で修正しなければならない。

なぜなら、想像と現場が違うことがあるからだ。

ドアを使おうと思っていたら引き戸だったとか、
タバコを使おうと思ったら禁煙だったとか、
窓を見てからその景色を使おうと思ってたら窓がないとか、
人間の立ち位置が違ってて向きが逆とか、
建物の配置が違うから動線全部違うとか、
その仕草がやりにくい衣装だったとか、
録音部のマイクの位置が、その芝居のできない位置とか。

あるいは、相手役にもそうやって用意したものがある。

打ち消しあったり、かぶったり、
相乗効果になればいいが余計だったりする。
冗長になりすぎたりね。

監督は指揮者として、それらを修正したり整理する。

その為には台本の深い理解が必要だ。

この人の動機は何か。
何が目的か。
何のためにそれを言い、して、
何を期待や予測していて、
相手をどう思っているのか。

まず役者の考えてきた演技プランが、
台本から遊離している時、
どこまでを良しとするかを判断しなければならない。
違っていたら間違いで、こうだと正すべきだ。
(解釈の違いで揉める、というのはここだ)

あるいは、仮にずれていたとしても、
面白くなったり良くなったりするのは歓迎だ。
パーフェクトでない台本は、
これによって化けたり深くなったりすることもある。
つまり役者に助けられる。

もちろん、やり過ぎなどの過不足をコントロールするのは、
指揮者たる監督だ。

オーケストラの指揮と同じで、
一つの楽器が目立っては全体が台無しになる。
しかし各楽器が機械のように演奏するのだったら、
人間がやる意味がない。

その塩梅を決めるのが現場だ。

演劇の場合は稽古期間が数週間設けられるので、
それをたっぷりやる暇がある。

しかし映画は撮影が数週間あるので、
稽古しながら撮影するという習慣になっている。
ハリウッドならば、数週間稽古+現場数週間だから、
もっと芝居を練れる。羨ましい。
だからキムタクみたいに同じ芝居をする人は、
大根役者としてバカにされる。


役者の時間は、つまり、
一人で考える時間と、
現場で調整する時間の、二つがあるわけだ。

タレントならば、「ひとつのタレントの型」に入っているかどうかを、
考えるだけで良い。
キムタクや昔の小倉優子あたりがわかりやすいか。
そういうキャラを演じているわけだ。

役者は、仕事のたびにそのキャラを作る職業だ、
と言っても過言ではないわけだ。

もっとも、役者にも「当たり役」というのがあって、
それを世間から期待されたり、飽きられたりする。
その辺をどう取捨選択するかも、
役者や監督の仕事である。


で、
脚本論に戻るけれど、
それらのガワは、役者や監督が考えるから、
そんなもの台本で指定する意味などないのだ。

間の秒数や、目線の位置や、手の位置や、姿勢や、
気持ちをこのように表現するとか、
今の気持ちはこうであるとか、
一々書く必要がないのだ。

書かれるべきことは、
何を言ったか、何をしたかであり、
それによって、ありありと、
「何が動機や目的で、何を期待していて、
好きか嫌いか、どういう事情でここにいるのか」
が「書かなくても読み取れる」ものである。

それが優秀な脚本というものだ。


優秀な脚本は、
文脈とセリフだけが書いてある。

座ってるか立ってるかも分からない。
文脈が関係ないなら、どっちにしても良いのだ。
(取調室なら座ってないとダメとか、文脈に依存するわけだ)

実際、座ってるか立ってるかなんて、
あとあとの芝居を活かすために決めるものだ。
(樹木希林の例で言えば、全員着席スタートでもいいけれど、
ケーキに注目させるために、
後から一人だけケーキを到着させているわけである)


素人の脚本ほど、
書く必要のないものまで書いてある。
それは、
「俺の想像した話を、想像したように演じること」
が芝居だと勘違いしているわけである。
だとしたら、あなたはアニメーターに向いている。

そうではなくて、芝居はみんなで作るものだ。
複数の自我による、思いもしなかった発想に出会い、
それらをアンサンブルとして組むことが、
芝居の醍醐味なのである。

だから役者はその為にアドリブを用意する。

ひとつには、この監督はこの台本をどう考えているか試すため。
ふたつには、周りの役者はどう考えているか試すため。

とくに演劇慣れした役者はそうする。
映像の場合、カット割りがあるから、
そこで文脈の意味が限定されるので、
演劇よりは幅が狭い。

また、ダメな台本は、
どうとでも取れるものにしかなってなくて、
アドリブでかわしてください、となっているものだ。
それは職務放棄である。
そういう台本が来たら、役者は抗議の意味で、
しっちゃかめっちゃかにしてしまう。
「俺が一番目立てば得できる」と。

(勿論自分が一番目立ちたいだけのバカ役者もいるが)



これらの芝居の醍醐味を知って、
台本は書かれるべきなのだが、
そんな経験が出来る脚本家はなかなかいないので、
それを学ぶのは現場しかない。

もしあなたが学生だったら、
学生劇団のところにお邪魔して、
台本が上がった瞬間から、
稽古時間から、本番から反省会まで、
付き合わせて頂くととても勉強になる。

映画系は役者がそこまで出来てないので、
あんまり参考にならないね。
台本も映像重視でちゃんと出来てないことが多いし。

台本には何を書くべきか、
台本には何を書くべきではないか、
台本にはどういう伸び代や隙間があるべきか。

その呼吸が分かってくると思う。

あなたが学生でなかったら、
お金を払って参加するワークショップや、
スタッフに直談判して頼み込めば、なんとかなるかもしれない。
「脚本家を目指しているんです」と言えば、
忙しくなければある程度は親切にしてくれるだろう。

基本的には、こういうことは盗むしかない。

何を考えてこの文字を書いたのか、
ありありと読み取れる台本がベストだ。


いい台本は、つまりは、役者がアドリブしやすいように、
動機と言動だけが書いてあるものである。

「やりやすい台本だった」と希林さんに言われて、
今も自信のひとつになっている。



台本は皿とレシピで、
材料や調理や盛り付け方は役者やスタッフだ。
監督は全体を統御する。
posted by おおおかとしひこ at 11:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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