日本映画でよく言われる、
ホンの書き方のテクニックと思われる方法。
僕は、これは間違っていると考えている。
平坦で眠い映画は、これが原因だ。
「気持ちを繋げる」というのは、
あるシーンとあるシーンの気持ちが自然に移行するようにすること、
と一般的には解釈されている。
リライトをしまくってぐちゃぐちゃになっても、
気持ちが繋がっていれば、
一本の話に見える、という、やや後ろ向きの手だと僕は思う。
(最悪の時には参考にしてください)
で、
何が問題かというと、
「ストーリーにおいて、そもそも気持ちは繋がっていない」のだ。
たとえば、
「今までニコニコしていた人が、突然切れる」
を考えよう。
「気持ちを繋げる」を原則にすると、
これは違反である。
だから、
「ニコニコしていた人が、ニコニコする」
「ニコニコしていた人が、徐々に怒り出し、そして怒りマックスになる」
をやらなくてはならない。
それ、面白い?
「今までニコニコしていた人が、突然切れる」
とき、
「何故そうなのか?」が問題だ。
「それまでずっと我慢していたことがあったが、
最後の一言でプチっと行った」なのかも知れないし、
「ずっと避けていたことがあって、
それに触れられたので狼狽えた」なのかも知れない。
その(一見)不思議な言動には、
理由があり、
その理由(因果関係)こそがストーリーだ。
表面上「繋がっていない」言動だとしても、
その人には繋がっている理由があるのである。
つまり、
ストーリーとは、
内面で繋がっている何かの方が重要で、
表面上の言動を繋げたってストーリーにはならないのだ。
「ニコニコしているひとが、ニコニコする」
は、表面上繋がっているが、
何も面白くない。
その内面の何かは繋がらないかも知れない。
つまりそれは狂気の一部でしかない。
理屈が通っていない。
逆に、ストーリーとは、
「何故こうしたのか」が繋がるべきで、
それに応じて気持ちはジェットコースターのように、
急落急展開するべきだ。
その原則を優先せずに、
「気持ちを繋げる」だけをやるから、
ゆっくりは繋がっているが、
何も展開しないものになり、
結果眠い邦画が出来上がるわけである。
繋げるべきは気持ちでなく、焦点であるべきだ。
気持ちはリアクション、枝葉末節に過ぎない。
(僕は女が映画に関わり始めてから、
行動より気待ち、「する」より「でいる」ことを重んじる傾向が出てきたように感じている。
それは男女差別的である。
結果を出すために行動するわけで、
気持ちがあれば結果が出ると思っているのは、
待っているだけの女子供だ。
このことについては今回は深掘りしない。
気持ちなんていかようにも繋げられる。
「…」というセリフをちょいちょい挟めば、
モンタージュ効果が働く)
2018年10月02日
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