2018年10月02日

「気持ちを繋げる」は、誤った方法論である

日本映画でよく言われる、
ホンの書き方のテクニックと思われる方法。

僕は、これは間違っていると考えている。
平坦で眠い映画は、これが原因だ。


「気持ちを繋げる」というのは、
あるシーンとあるシーンの気持ちが自然に移行するようにすること、
と一般的には解釈されている。

リライトをしまくってぐちゃぐちゃになっても、
気持ちが繋がっていれば、
一本の話に見える、という、やや後ろ向きの手だと僕は思う。
(最悪の時には参考にしてください)


で、
何が問題かというと、
「ストーリーにおいて、そもそも気持ちは繋がっていない」のだ。

たとえば、
「今までニコニコしていた人が、突然切れる」
を考えよう。

「気持ちを繋げる」を原則にすると、
これは違反である。
だから、
「ニコニコしていた人が、ニコニコする」
「ニコニコしていた人が、徐々に怒り出し、そして怒りマックスになる」
をやらなくてはならない。

それ、面白い?

「今までニコニコしていた人が、突然切れる」
とき、
「何故そうなのか?」が問題だ。

「それまでずっと我慢していたことがあったが、
最後の一言でプチっと行った」なのかも知れないし、
「ずっと避けていたことがあって、
それに触れられたので狼狽えた」なのかも知れない。
その(一見)不思議な言動には、
理由があり、
その理由(因果関係)こそがストーリーだ。

表面上「繋がっていない」言動だとしても、
その人には繋がっている理由があるのである。

つまり、
ストーリーとは、
内面で繋がっている何かの方が重要で、
表面上の言動を繋げたってストーリーにはならないのだ。

「ニコニコしているひとが、ニコニコする」
は、表面上繋がっているが、
何も面白くない。

その内面の何かは繋がらないかも知れない。
つまりそれは狂気の一部でしかない。
理屈が通っていない。


逆に、ストーリーとは、
「何故こうしたのか」が繋がるべきで、
それに応じて気持ちはジェットコースターのように、
急落急展開するべきだ。


その原則を優先せずに、
「気持ちを繋げる」だけをやるから、
ゆっくりは繋がっているが、
何も展開しないものになり、
結果眠い邦画が出来上がるわけである。


繋げるべきは気持ちでなく、焦点であるべきだ。

気持ちはリアクション、枝葉末節に過ぎない。


(僕は女が映画に関わり始めてから、
行動より気待ち、「する」より「でいる」ことを重んじる傾向が出てきたように感じている。
それは男女差別的である。
結果を出すために行動するわけで、
気持ちがあれば結果が出ると思っているのは、
待っているだけの女子供だ。
このことについては今回は深掘りしない。
気持ちなんていかようにも繋げられる。
「…」というセリフをちょいちょい挟めば、
モンタージュ効果が働く)
posted by おおおかとしひこ at 19:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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