下手したらストーリーなんて誰も必要としていない。
極端にそう考えることもある。
だとするとどうなるか、
思考実験。
点やガワだけが必要とされている。
つまりは、
好きな俳優の立ち姿や仕草やコスプレが見れて嬉しい。
興奮する場面や、わくわくする場面だけが出来が良い。
アトラクションとして最高の映像。
(ドラマやネットでは作りが安いが、
映画なら予算があるからちゃんと作ってある)
美しいセットや衣装を楽しむ。
音楽と場面のすごいマッチング。この曲好き。
画面のデザインがカッコいい、きれい、好き。
共感できる場面がある。
だいたい似たようなテンションが保たれている。
これらは、
面白い映画の一要素として、
「おもしろかった」という感想に含まれることが多い。
ストーリーが良かったことをうまく言える人はいない。
ターニングポイントが劇的であったとか、
焦点が上手に保たれ、適度に息抜きがあったとか、
モチーフとテーマのずらしが興味深いとか、
最初に前振ったあれがここで効いてくるとはとか、
メインテーマとサブテーマのつながりとか、
主人公の弱点の克服の仕方がとても良かったとか、
構成が巧みで先を読ませなかったのが良かったとか、
全体のリズムの支配がよいとか、
このテーマが何故現代に意味があるのかを考えたとか、
あれがあれを象徴しているのが良かったとか、
そういうものについて、
きちんと批評できるひとはとても少ない。
前者は目に見える物を言っている。
後者は目に見えない物を言っている。
そしてストーリーは目に見えないものである。
ストーリーは要らないのかな。
時々考えてしまう。
いや、皆が、
目に見えることしか語れないだけではないかと、
思いたい。
ストーリーは「流れの構造」のようなものだ。
目に見えないし、意識できない。
しかし私たちはそれを、
「言葉」だけを武器につくる。
実のところ、脚本を読んで、
「セリフ」がいいとか悪いとかしか言えない人は、
ストーリーが見えていない。
その人たちに分かるように書くには、
いいセリフを書くしかないかも知れないね。
僕は、もはや脚本が読める人がほとんどいないんじゃないかと、
ちょっと諦める事件があった。
シチュエーションとセリフとムードだけ見てて、
構造とか落ちとかいらないんじゃないかって。
小説を書き始めたのも、
脚本形式では一般の人に馴染みがないから、
という思いがあり、
自分のストーリーを語る手段として、
脚本形式では発表できないからと考えたからだ。
小説がうまくなれば、僕に脚本は必要なくなるのか、
それは分からない。
世の中はガワだけ消費できれば良くて、
中身を欲しがっていないのかも知れない。
それでも、
そのガワに引っかかって中身をのぞいた人が、
きちんと満足できるような、
中身を用意したいと思う。
本質を見る目がない人はいつの世にもいるし、
本質を見る目がある人も、いつの世にもいる。
どちらに向けても、つくるべきだと思う。
2018年10月06日
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