自由が丘の祭りに、Jun Skywalker(s)がやって来た。
たしかに80年代のロックで、
前向きで、何も考えずに希望が溢れてて、
それが僕らにパワーをくれる。
この時代に若者であってよかったと思う。
で、いまそういう音楽がなくなったのは何故だろうかと考える。
地球が有限であったと分ってしまったからではないか。
それは80年代の途中からそうだったよな。
環境問題が勃発するまで、
私たちは消費至上主義だったはずだ。
どんどん生産し、消費し、捨て続け、
拡大し続けることが正義だった。
産めよ増やせよ、だったはずだ。
それは成功をしていたから、
万能感あふれる前進の歌が80年代のロックの、
あかるい曲調と前向きの感覚を生んでいた。
それは若者の気分とともに時代の波に乗った。
でも地球は有限と分かってしまった。
ゴミを捨て続ければ地球は埋まってしまうことが分かった。
奴隷の国になる植民地はもうなくなってしまった。
資源も底をつきそうだ。
だから地球にやさしい、エコという生き方をしなければならない。
80年代の前向きの気分は、
環境破壊という冷水で、一気に冷えた。
このまま拡大し続けられないことが分かった。
冒険は、崖の端っこまで行ってしまったのだ。
あとは、この限られた空間の中で最大化を狙うしかない。
90年代はだからクールが支配する。
熱くなっては、はみ出してしまう。
クールに、この範囲内でやらなければいけない。
00年代でその価値観は内面化し、
さらに10年代は制限がきつくなってきた。
前向きに生きようぜ!
(ただし地球にやさしく、制限速度を守り、
皆の迷惑にならず、ハラスメントが起きない範囲で、
炎上しないように。
あと老人を養うために消費税を増税。
賃金は最低限で、終身雇用の保証なし)
と、()内の制限がきつくなってきた。
80年代はその制限がなかった。
だってバイクにヘルメットはしなくても良かったんだぜ。
シートベルトは締めなくて良かったんだ。
煙草は吸い放題、捨て放題だった。
だから、前向きに行こうぜって空気がすごかった。
それで繁栄を勝ち取れたから、
その全能感が時代だった。
行き止まりを我々は知ってしまった。
()の制限つきでないと前に進めない。
それは大変な枷だ。
足に鎖を繋いだ前向きの歌と、
無制限の前向きの歌では、
後者のほうが強い。
今音楽が生れない。
今映画が生れない。
今漫画が生れない。
それは、地球が有限だって前提になってしまったからだ。
有限って知らない時代につくった、
全能感が溢れるものに、
現代が勝てるはずがない。
ネットという仮想空間が、
全能感を溢れされるフロンティアだった。
もうそこは全能感があって前向きになる世界ではない。
ネットは実は箱物で不動産だった。
そこで何かを提供できる人が勝ち組になり、
その場所代を取るものが勝ち組になっていく。
次に日本人が前向きになる時代が来るとしたら、
新しいフロンティアが発見されたときで、
具体的には新技術で、
仮想空間でなく実空間に革命がおこるときで、
それは火星開拓が来るまでないかもね。
と、いうことは、
私たちは80年代の栄光に勝てる音楽を聴くことは出来ないかも知れない。
先日若者の言い分を知るときがあって、
「なぜテレビではなくYouTubeを見るのか?」
という問いに対して、
「私たちの同年代が出ていないから」
という回答があったらしい。
ああ、たしかに、もうテレビには若者は出てなくて、
若者だけが出ている別のメディアを見るよなあ、
と思った。
僕らの時代でいうと、
「紅白に若者が出ないから、紅白を見なくなった」
という高校生のときのような感覚だね。
YouTubeはいずれ有限であることが分かるだろう。
飽和してきたときがそうだ。
もう飽和しているかもしれないね。
雨後の筍、真似したなにかが出てきたときは、
もう飽和して崖が見えているということ。
80年代に青春を送れた私たちの世代は幸せだったが、
同時にこの時代を生きなければならないのが、
地獄とも言える。
希望を見てからどん底にたたきつけられているわけだから。
それでも、
希望はある。
それをすることは、物語の役目の一つだと思う。
80年代のように無知でも希望を歌えるわけではなく、
玄人だからこその希望を、
謳うべき時代に来ている。
何も考えていない(ように見える)ジュンスカと、
乗っているのはオジサンオバサンだけという自由が丘で、
そんなことを考えていた。
2018年10月08日
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