主人公が内的問題を抱えている。
それを物語の中で解決する。
それを見た人々が、感情移入によって、
まるで自分のトラウマを解消したような気になる。
この疑似体験が物語の機能で、カタルシスと関係する。
主人公のトラウマや内的問題はなにか。
弱い自分を、どう克服するのか。
「主人公を自分にしてはいけない」
と僕は警告している。
自分のトラウマを主人公に抱えさせると、
自分が克服していないのに、
主人公が克服するさまを描けるわけがないからだ。
あるいは、自分が克服できないものを、
さも克服したかのように、
疑似克服してしまう。
架空世界の中でのリアリティで描ければよいが、
ご都合主義に陥ってしまう危険性のほうが大きい。
なので推奨ではない。
物語を描くことは苦しい。
なぜなら、主人公のトラウマ克服場面は、
自分のトラウマに触れることになるからである。
まったく同一ではないにせよ、
似たようなものだからこそ、
あなたの物語を書く動機になっていることは間違いないので、
それをご都合主義でなく昇華することは、
リアリティをもってやることは、
相当に困難だ。
だから苦しい。
もし「これ以上書くことができない」
と感じて苦しくなるなら、
主人公のトラウマなどの内的問題と、
あなたの内的問題が近すぎることで、
起こっている可能性が高い。
自分が克服できないものを、
架空の世界で克服できるわけがないからである。
逆に、
自分の克服出来ないものに「近いもの」を主人公に負わせて、
主人公が上手に解消することで、
自分の何かを成仏させる作家もいる。
それは「自分」も観客の一部になっているということだ。
観客は、
「まったく同じではないが、自分も似たようなことがある」
ことによって感情移入する。
それが解消されることで、自分の何かが疑似解消することが、
物語がカタルシスがある証拠で、
精神治療効果がある証拠だ。
(逆に、精神治療は物語を使う)
そのような立場に作者が立つことで、
上手に架空世界をコントロールしていくのである。
女を口説くのが下手なやつが、
女を口説くのが下手なやつを主人公にして、
女を口説けるようになる物語を書くべきではない。
それは自爆する。
出来ないことを出来るようになることを、
俯瞰的な目線で書くことは出来ないだろう。
女を口説くのが下手なやつが、
たとえば「演説が下手な主人公」を描き、
演説コンテストでうまく喋れるようになるまでを描くならば、
自分のトラウマや内的問題が解消するように、
描ける可能性がある。
要点だけいうと、
まんまではなく、ずらせ、
ということになる。
「自分を描け」なんていうアドバイスは、
僕は陳腐だと思う。
自分をそのまま描いてしまっては、
自分に出来ないことはそのままになってしまうのが、
リアルというものだ。
そうではなくて、
「近いものにずらせ」
というアドバイスのほうが現実的ではないかと思う。
近いものだから熱を入れられる。
ずらしているから、客観的になれる。
その距離感が大事だ。
その距離がうまく取れたとき、あなたはその物語をものにできると僕は思う。
たとえば、
「自分が生きている世界ではないが、
取材していて楽しい別世界」に、
「自分の内的問題に近いが、
違う内的問題をもつ主人公」を投入すると、
上手く行くんじゃないか。
そういう、世界と内的問題の組合せがうまくいったとき、
あなたにしか書けない名作が出来る可能性がある。
名作というのは、表面を軽く撫でては生まれない。
底まで到達するような深い何かが必要だ。
それは取材からでは生れなくて、
取材との出会いから思い出された、
あなたの内部の何かから生まれる。
おなじ世界を取材しても、
書く人によって、ぜんぜん出てくる物語は違う。
あなたの内部の何かに「近いが違うなにか」を、
その世界に発見できたときに、
「あなたが書く」深い物語が出来るはずだ。
取材というのは、
勿論ネタ集めだけど、
ほんとうは、あなたと何が出会うのかを、
探しにいく旅だと思う。
「書ける」と思えるのは、それだと思うんだよね。
なんでもかんでも書ける訳ではない。
何かを発見できたときだけだ。
それは、知らない世界に、自分と近い内的問題を発見できたときだけだ。
それは、知らない世界に、感情移入できたとき、
だと思う。
2018年10月08日
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