2018年10月08日

トラウマの脱出

主人公が内的問題を抱えている。
それを物語の中で解決する。

それを見た人々が、感情移入によって、
まるで自分のトラウマを解消したような気になる。
この疑似体験が物語の機能で、カタルシスと関係する。


主人公のトラウマや内的問題はなにか。
弱い自分を、どう克服するのか。

「主人公を自分にしてはいけない」
と僕は警告している。

自分のトラウマを主人公に抱えさせると、
自分が克服していないのに、
主人公が克服するさまを描けるわけがないからだ。

あるいは、自分が克服できないものを、
さも克服したかのように、
疑似克服してしまう。

架空世界の中でのリアリティで描ければよいが、
ご都合主義に陥ってしまう危険性のほうが大きい。
なので推奨ではない。


物語を描くことは苦しい。
なぜなら、主人公のトラウマ克服場面は、
自分のトラウマに触れることになるからである。
まったく同一ではないにせよ、
似たようなものだからこそ、
あなたの物語を書く動機になっていることは間違いないので、
それをご都合主義でなく昇華することは、
リアリティをもってやることは、
相当に困難だ。
だから苦しい。

もし「これ以上書くことができない」
と感じて苦しくなるなら、
主人公のトラウマなどの内的問題と、
あなたの内的問題が近すぎることで、
起こっている可能性が高い。
自分が克服できないものを、
架空の世界で克服できるわけがないからである。


逆に、
自分の克服出来ないものに「近いもの」を主人公に負わせて、
主人公が上手に解消することで、
自分の何かを成仏させる作家もいる。

それは「自分」も観客の一部になっているということだ。


観客は、
「まったく同じではないが、自分も似たようなことがある」
ことによって感情移入する。
それが解消されることで、自分の何かが疑似解消することが、
物語がカタルシスがある証拠で、
精神治療効果がある証拠だ。
(逆に、精神治療は物語を使う)

そのような立場に作者が立つことで、
上手に架空世界をコントロールしていくのである。


女を口説くのが下手なやつが、
女を口説くのが下手なやつを主人公にして、
女を口説けるようになる物語を書くべきではない。
それは自爆する。
出来ないことを出来るようになることを、
俯瞰的な目線で書くことは出来ないだろう。

女を口説くのが下手なやつが、
たとえば「演説が下手な主人公」を描き、
演説コンテストでうまく喋れるようになるまでを描くならば、
自分のトラウマや内的問題が解消するように、
描ける可能性がある。


要点だけいうと、
まんまではなく、ずらせ、
ということになる。


「自分を描け」なんていうアドバイスは、
僕は陳腐だと思う。
自分をそのまま描いてしまっては、
自分に出来ないことはそのままになってしまうのが、
リアルというものだ。
そうではなくて、
「近いものにずらせ」
というアドバイスのほうが現実的ではないかと思う。
近いものだから熱を入れられる。
ずらしているから、客観的になれる。
その距離感が大事だ。
その距離がうまく取れたとき、あなたはその物語をものにできると僕は思う。


たとえば、
「自分が生きている世界ではないが、
取材していて楽しい別世界」に、
「自分の内的問題に近いが、
違う内的問題をもつ主人公」を投入すると、
上手く行くんじゃないか。

そういう、世界と内的問題の組合せがうまくいったとき、
あなたにしか書けない名作が出来る可能性がある。


名作というのは、表面を軽く撫でては生まれない。
底まで到達するような深い何かが必要だ。
それは取材からでは生れなくて、
取材との出会いから思い出された、
あなたの内部の何かから生まれる。

おなじ世界を取材しても、
書く人によって、ぜんぜん出てくる物語は違う。

あなたの内部の何かに「近いが違うなにか」を、
その世界に発見できたときに、
「あなたが書く」深い物語が出来るはずだ。


取材というのは、
勿論ネタ集めだけど、
ほんとうは、あなたと何が出会うのかを、
探しにいく旅だと思う。
「書ける」と思えるのは、それだと思うんだよね。


なんでもかんでも書ける訳ではない。
何かを発見できたときだけだ。
それは、知らない世界に、自分と近い内的問題を発見できたときだけだ。
それは、知らない世界に、感情移入できたとき、
だと思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:24| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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