2018年10月12日

何かをするからケンカするのだ

何もしないところにケンカは生まれない。
何かを共同でやるからケンカがある。


成田離婚なんて今はあるのかね。
恋人と旅行してみたら散々ケンカした、
なんてことは沢山あるだろう。
同棲したら毎日苛々がたまるし、
結婚したらケンカは数多い。
それは、
「何かを一緒にすること」から生まれているからだ。

とくに恋人や嫁とのアレは、
人に言えるほどたいしたことじゃない、
とても小さなことで苛々がたまる。
日常を共にするのだから当然なわけだ。

恋人でなくとも、
部活の合宿とかでもそうなるだろうし、
寄宿舎や相部屋でも同じことになるだろう。
部活や相部屋なら変えればいいけど、
恋人や嫁だと変えるわけにもいかないのが、
こうしたことの原因ではある。


で、本題。

物語とはコンフリクトである。
要するにケンカだ。

何もないところではケンカしない。
人はいきなり電車の隣の人とケンカしない。
すれ違うだけである。

一緒に何かをするから、
ケンカが起こる。
このことを覚えておくといい。

つまり、物語を書こうと思ったら、
一緒の場所において、何かをさせて、
何かが違うことがあるといいわけだ。


一緒の場所にいないとケンカは起こらない。
何もしないとケンカは起こらない。
違う人でないとケンカは起こらない。

ケンカは、違う人が、一緒に、何かをするときに起こる。


だから、
どう違うのか、どこで何をするときに、
という部分を作れれば、
それが物語の発端になるわけだ。


で、違う部分とは、
生活習慣とか、ちょっとした日常のことから、
立場上の食い違いとか、考え方とか、思想とか、
動機を持った目的とか、になってくるわけである。


そのケンカが、どう展開して、
どう決着がつくかは、別の段階だけど。

ストーリーがどうしても書けない人は、
ケンカとその顛末記だと思うと、
うまく書けるかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 13:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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