何もしないところにケンカは生まれない。
何かを共同でやるからケンカがある。
成田離婚なんて今はあるのかね。
恋人と旅行してみたら散々ケンカした、
なんてことは沢山あるだろう。
同棲したら毎日苛々がたまるし、
結婚したらケンカは数多い。
それは、
「何かを一緒にすること」から生まれているからだ。
とくに恋人や嫁とのアレは、
人に言えるほどたいしたことじゃない、
とても小さなことで苛々がたまる。
日常を共にするのだから当然なわけだ。
恋人でなくとも、
部活の合宿とかでもそうなるだろうし、
寄宿舎や相部屋でも同じことになるだろう。
部活や相部屋なら変えればいいけど、
恋人や嫁だと変えるわけにもいかないのが、
こうしたことの原因ではある。
で、本題。
物語とはコンフリクトである。
要するにケンカだ。
何もないところではケンカしない。
人はいきなり電車の隣の人とケンカしない。
すれ違うだけである。
一緒に何かをするから、
ケンカが起こる。
このことを覚えておくといい。
つまり、物語を書こうと思ったら、
一緒の場所において、何かをさせて、
何かが違うことがあるといいわけだ。
一緒の場所にいないとケンカは起こらない。
何もしないとケンカは起こらない。
違う人でないとケンカは起こらない。
ケンカは、違う人が、一緒に、何かをするときに起こる。
だから、
どう違うのか、どこで何をするときに、
という部分を作れれば、
それが物語の発端になるわけだ。
で、違う部分とは、
生活習慣とか、ちょっとした日常のことから、
立場上の食い違いとか、考え方とか、思想とか、
動機を持った目的とか、になってくるわけである。
そのケンカが、どう展開して、
どう決着がつくかは、別の段階だけど。
ストーリーがどうしても書けない人は、
ケンカとその顛末記だと思うと、
うまく書けるかもしれない。
2018年10月12日
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