2018年10月13日

物語とは、誰か他人が、架空の世界で勝利すること

ストーリーとは何か。
このブログでは、なんども言い方を変えて表現しようとしている。
(もちろんその答えは出ないような気もしている)
で、今回はこういう言い方をしてみる。


1 物語は、架空世界での誰か他の人のことである。

今と地続きでもいいし、まったく架空でもいい。
少なくとも物語の中のことがほんとうだと思っている人はいない。
少なくとも、これは誰かにつくられた、
架空の事だと思っている。
もちろんそれが「ありそう」「事実っぽい」
というレベルはある。
それは現代日本とは限らなくて、
剣と魔法の世界でも、それがとてもありそうだと思えればそれはありそう、
というのがフィクションの面白いところだ。

逆に、ぜんぜん違う星のSFを考えると、
我々とまったく違う考え方やまったく違う物質のことは分からないから、
物語にならない。
外国語のジョークで全く笑えないものがあるのと同じである。
しかし、
そこに「我々が分るもの」
「自分に近いから類推できるもの」があると、
途端に分るようになってきて、
ありそうだと考えるようになる。
そこの匙加減こそが、フィクションのキモだ。

そしてこれが重要なのだが、
主人公はあなたと関係ない、他人であることだ。
全く違う世界の全く違った人物に、
観客がログインするような感覚である、
ということを考えるといい。
何故ログインできるのかというと、
先に書いた通り、全く違う部分に、
自分と近い何かを見つけることを、
手がかりにするのである。

つまり、
自分と全く違う他人で、自分と全く違う世界なのに、
自分であると思えるような、
架空世界の架空人物の手がかりを用意することが、
物語に必要な機構ということである。

それは他人であればあるほどよい。
「いつもと違うところへ行きたい」
という願望をかなえるほど、レベルが高く、
「なのに自分のようである」
と感じるほどレベルが高いことになる。

だから、
作者であるあなたを表現することは、
物語の目的ではない。
多くの初心者が勘違いすることであるが、
主人公はあなたではない。
あなたを書くのではなく、
架空世界の架空人物なのに、
多くの人が「これは自分に似ている」
ということを作るべきなのである。

「似ている」のは外見や立場や性格ではない。
内面やシチュエーションがよい。
なぜなら、外面のことでは、
「これは自分ではない」
と思って跳ねてしまうが、
内面のことでは、
「これは自分にも当てはまるところがある」
と共通点を見出しやすいからである。

ブスは美人の話を自分のことと思わないし、
美人はブスの話に共感できない。
しかし、
「強いやつにいじめられ、反抗出来ない」というシチュエーションならば、
美人でもブスでも共感できるだろう。

私たちが異性の主人公でも、年齢が違う主人公でも、外国人主人公でも、
感情移入できる理由は、
「全く違う人間に、自分と似ているところを見つける」からであり、
「自分と似ているスペックだから」ではない。

そういう意味で、
「オレ〇〇。なんの変哲もない高校生」
で始まる物語は、何も分っていないと言える。

架空の世界の架空の人物「なのに」、
自分と近い部分を持つ事が、
物語に課せられた必要条件であると言ってもいいくらいだ。


2 勝利すること

これは、ハッピーエンドが必要ということと、
闘うことが必要ということを意味している。

物語は問題の解決を追う。
この際に、楽勝してしまっては物語とはいえない。
すぐに勝利する話は楽勝話であって、
何の面白味もない。
どういう苦労をしていくのかが、
物語である。
苦労のオンパレード、失敗のオンパレード、
逆転のオンパレードが物語だ。
闘いはハイリスクである。
だから面白い。
リスクのない物語は楽勝話に過ぎない。
リスクを背負って、その危険を突破するから、
ワクワクして面白くなるのである。

で、それは最後に勝利するべきだ。
これは異論がある事は認める。
しかし、基本的に物語は勝利するべきである。
「架空の世界での架空の人物」
に我々がログインしているのだ。
上手にログアウトできるのは、
勝利してカタルシスを味わったときだ。
このカタルシスが、
生まれ変わり、すなわち、
「物語を見る前はそうだと思っていなかったことを、
物語を見たからには、そうだと確信できる」
という影響を生むのである。

仮に敗北で終わるとしたら、
「今まで見守っていたことが、全部無駄であった」
ということになってしまい、
何の為に見たのか分からなくなってしまう。

もちろん、
「安易な勝利は現実的ではない」とか、
「物語ばかり人は見るべきではない」
という主張の表現のためにバッドエンドやビターエンドを作ることはあるけれど、
それはメタ視点を持つという意味で、
物語単体で存在できない弱さがあると僕は思う。

メタ視点、背後文脈が必要なものは、
現代美術と同じで、
弱い芸術のような気がする。

あと、単純に、
「これ、バッドエンドだからいいんだ」
って言いたがるやつは、中二病が多いだけで、
そんな狭い層に受けるものばかり作っても意味がないからだ。
物語は、なるべく多くの人に伝えられ、
共有されるべきだ。
物語はマスコミュニケーションだからだ。
(そうでない、パーソナルな物語、
口伝えや、YouTubeならそれもよいだろう)


と、いうことで、
物語は、
架空の世界での、架空の人物の、勝利を描くものである。
それを作家は競う。
違う世界なのに、まるで自分のことのようにログイン出来るものを競い、
そこの勝利で、疑似勝利を味わい、
人生をよくするヒントをもらう。

ログイン、と言葉を変えてみたが、
僕はこれこそを感情移入だと定義している。
posted by おおおかとしひこ at 07:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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