私たちは何故同じキャラクターを求めるのか?
作者が未熟だから、という方向性から考える。
人生経験が少ないと、
「世の中にはいろんな人がいる」
ということを本当には理解できない。
頭では理解できるだろうが、
物語作者の場合、
「自分の中に複数の人格を飼う」必要がある。
その複数の人格に、
きちんと多様性があるかどうかなのである。
自分と同性のキャラクターは比較的バラエティに富む。
友達と色々付き合ってきただろうし、
野郎同士、女同士の呼吸があるだろう。
大抵の場合異性がひとつの典型に収まるのが問題だ。
理想の女性、理想の男性を押し込めがちだ。
清楚で、受け入れてくれて、ちょっとツンデレでちょっとエッチ。
イケメンで細マッチョでやさしくてリードしてくれて、
ちょっとわがままだけど少年らしいところもある。
大体はこんな感じか。
この類型以外の異性を何パターン描けるか、
ということを考える。
ハーレムものの類型のパターンではなく、
「リアルに生きている人」のパターンである。
物語に登場する人物は、
ある程度類型的になる。
ユングが分析した通り、
人は無意識の中に類型人物を飼っているからである。
しかしそれが判を押したような、
同じ人物では、
面白くもなんともないではないか。
多様性というからには、
今まで見たことのないヘンテコな、
面白い人物を出すべきだ。
色々な考え方があり、
色々な立場があり、
平和だったり揉め事が起こっていることを知ることだ。
勿論知るだけじゃなくて、
物語の中に登場しなければ意味がない。
アニメしか見てないなら、
アニメみたいな人物しか描けなくなる。
世の中の沢山の人と知り合い、
その人の考え方や性格や経験や立場や、
目的や動機の多様性を知るべきだ。
そうじゃないから、
作者はいつまでたっても同じキャラクターばかり書くのである。
そもそも人生がリア充じゃないから、
それを満たすために書く人は多い。
編集者の人は、
とりあえずキャバクラにでも連れてって、
人間の多様性を学ばせるといいと思う。
ブスの人生ってほんとに面白いからね。
そういう意味では、
次回の旭川ロケでは人妻スナックにでも行こうと思っている。
濃い人生の話を聞きたい。
勿論キャバクラやスナックだけではなく、
色んな人の人生を見ることは、
作家ならばやるべきだ。
見るだけじゃわからない、内面を知ることは、
三人称文学である脚本には、
是非とも必要なことだ。
もし自分がそういう境遇だったら。
もし自分がそういう考え方だったら。
まったく違う人の話を聞くことは、
「あり得たかも知れない自分」に出会うことかも知れないよ。
2018年10月15日
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