面白い作品は、つねにクライマックスであるような感覚がある。
出来るだけそうするべきだ。
これは前半のクライマックスかも。
これは中盤の最大のクライマックスかも。
これはクライマックス直前の、最大のクライマックスかも。
観客も、作者も、そう思うように作るといい。
クライマックスとは、
緊張が最大に高まるところだ。
なぜそうなるかを考えると、
成功するか失敗するかわからない、
あやふやな状況で、
成功するとリターンがあり、
失敗すると取り戻せないリスクがあり、
運や他人任せよりも、
主人公の頑張りや工夫しだいで突破しなければならない状況で、
これをクリアするといったんは休める、
という状況が揃っているからだ。
あるいは、これに成功すると、
ストーリーが決着がつく、
と考えるから、緊張するのかもしれない。
そのような状況を作ろう。
つまり、
最初に提出された問題が、
「これで決着するかもしれない」
と思わせるような、
緊張感あふれる場面を作ることだ。
「これで決着するとは限らない」
と思っていると、
「まだまだ続くんだな」
という油断が出てしまい、
それがだれる原因になる。
ということは、「これで終わるかも」
を持ってくるといいわけだ。
「ファイナルファンタジー」
はつねにファイナルだ。そういうことである。
バトルもののインフレは、
毎回「これで世界が終わる最大の危機」とか言っている。
そういうことだ。
最初に提出した問題が、
これで決着がつくかも、という緊張感がクライマックスで、
それは最後に用意するのではなく、
惜しみなく前半から作っていく。
ということは逆に、
「それが決着したら、次の問題が勃発する」
ということになる。
それがそのクライマックスの問題と、
なにも関係ないと面白くない。
宇宙人を倒したと思ったら今度はエボラ出血熱が?
なんて展開は面白くない。
二本のストーリーになってしまう。
これが関係あるようにならないと、
それはストーリーではないのだ。
宇宙人を倒したと思ったら、
かれらが持ち込んだ宇宙の菌が増殖して、
エボラ出血熱に似た大感染状態が広まる、
という感じで、互いの問題は関連する必要がある。
つまり、問題そのものが発展的になるようにするとよい。
最初のころは、
ひとつ問題を設定して、
それを解決するクライマックスをただひとつだけ作る。
そんな簡単なことすら困難であると思う。
しかし慣れてくると、
「その問題は解決したが、
新たな問題が発生した。
本当に解決したわけではなかったのだ」
が出来るようになる。
問題を進化、深化させればいいのである。
だから、一見毎度毎度クライマックスが訪れるように作れる。
「これを解決すれば全部解決だ!」
→「やった!」
→「しかし、新たな深い問題に!」
の繰り返しになるわけだ。
こうなると、緊張の途切れない、
序盤から中盤が作れるだろう。
中盤や序盤のダレは、
こうした、
小さなクライマックスを用意していないことに尽きると思う。
作者が休みたがっている(緊張に疲れて、これを突破する方法が思いつかない)
ということは置いといても、
全体の計算がぬるい、ということになる。
起伏がないと、ダレる、ということを考えていない。
自分の設定した問題を解くだけで精一杯だ、
ということなのだ。
問いが出てきてそれを解くのがストーリーなのではなく、
問いを解決したら問い2が出てきた、
というのがストーリーであると思う。
もっとも、ごく短いストーリーなら問い1だけで終わるかもしれない。
しかし映画なみの長編になるなら、
その問いは4つも5つも6つもあってしかるべきだと思う。
それは一幕でもあるべきだし、二幕でもあるべきで、
つまりは三幕が唯一のクライマックスではなく、
三幕は最大のクライマックスであるべきだ、
という事なのだ。
つねにアップアップであるべきだ。
それが緊張感を続けて、ダレを防ぐだろう。
もちろん、緩急はつけてよい。
しかし「これを解決したらすべては解決するかも」
の緊張感は、常に予感させるべきだろう。
これを解決してもたいして進展しないな、
と思われたら負け、ということでもある。
彼女のハートを攻略した。
しかし、彼女には旦那がいた。
これがストーリーだ。
いつもクライマックスでいよう。
(そんな二転三転が毎回うまくいくとは限らなくて、
それでもうまくいく全体を先に設計するのが、
プロットなのだ。
プロットは思いついたものの下書きではなく、
念入りにそれらのクライマックスをどうつなげるかまで、
考えるべきものである)
2018年10月16日
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