どうしてもなければならないものは何か。
ものすごく削ると、
前振りと落ちという二つかなあ。
主人公も、シチュエーションも、問題も、
解決も、テーマも、
物語には必要なもので、
サブプロットや起伏もほとんどのものには必要だ。
でもどうしても必要なものだけを見つめると、
これすらディテールに過ぎず、
要するにお話(ストーリーの形をしてなくても、
誰かが誰に語るものとしての形式)は、
前振りと落ちだけあればいいんじゃないかと考える。
前振りと落ちが同じタイプが論文である。
これから語ることを前振り、
実際に展開して、
結論をもう一度語るのが論文だ。
前振りが落ちの伏線になっているのがストーリー形式とも言える。
それは、論文形式じゃつまらないからだ。
逆に論文に面白さはいらない。
必要なことが必要なだけ書いてあるべきだ。
ストーリーとは、
その伝えることに関して、
いかに面白く語るかの基本ではないだろうか。
で、論文との唯一の違いが、
前振りが落ちの伏線になっている、
という構造そのものだろう。
起承転結とはいうものの、
序破急とはいうものの、
この構造について言及していないのが、
僕は問題だと思う。
あるいは三幕構成理論についても、
前振りと落ちという関係性で、
一幕と三幕を捉えていないので、
今の僕には不十分な理論に思えている。
おはなしとは、
「何か話しますよ」とはじまって、
途中があって、
「最初のものを再び言及するけど、
これでおしまい」
という形をしている気がする。
最初と最後が全く同じなのではなく、
最初が最後の前振りに上手になっていることが、
おはなしとしてまとまっているものの条件ではないか?
これはあくまで仮説だ。
しかし、
最初と最後が全く関係ないものは、
話として成立するだろうか?
それはただあったことの報告に過ぎず、
「意味をなしていない」のではないだろうか?
意味があることを話すのは、おはなしだろうか?
僕は、
何かしら意味のあることを話すべきだと考えていて、
(そう考えないシュールレアリストもいる)
意味のあることを話すのなら、
出だしと落ちは、関係がないといけないと思う。
そうでないと、
「どこからどこまでが話しか」が分からなくなるのではないか、
と考えるわけだ。
逆にいうと、
膨大な情報が溢れるなかで、
最初に言ったこととエンドに言ったことが関係していることで、
そこを結んでここからここまでおはなし、
と領域を区切るのが、
前振りと落ちの結びつきではないかと考える。
ここからここまで、という境界線であると。
まあ難しいことはどうでもいい。
面白い話を作ろうと思ったら、
最低でも前振りと落ちはしっかりしないと、
しっかりしないということである。
ということで前振りに戻ってきたので、おしまい。
2018年10月17日
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