2018年10月17日

前振りと落ち

どうしてもなければならないものは何か。

ものすごく削ると、
前振りと落ちという二つかなあ。


主人公も、シチュエーションも、問題も、
解決も、テーマも、
物語には必要なもので、
サブプロットや起伏もほとんどのものには必要だ。

でもどうしても必要なものだけを見つめると、
これすらディテールに過ぎず、
要するにお話(ストーリーの形をしてなくても、
誰かが誰に語るものとしての形式)は、
前振りと落ちだけあればいいんじゃないかと考える。


前振りと落ちが同じタイプが論文である。

これから語ることを前振り、
実際に展開して、
結論をもう一度語るのが論文だ。

前振りが落ちの伏線になっているのがストーリー形式とも言える。

それは、論文形式じゃつまらないからだ。
逆に論文に面白さはいらない。
必要なことが必要なだけ書いてあるべきだ。

ストーリーとは、
その伝えることに関して、
いかに面白く語るかの基本ではないだろうか。


で、論文との唯一の違いが、
前振りが落ちの伏線になっている、
という構造そのものだろう。

起承転結とはいうものの、
序破急とはいうものの、
この構造について言及していないのが、
僕は問題だと思う。

あるいは三幕構成理論についても、
前振りと落ちという関係性で、
一幕と三幕を捉えていないので、
今の僕には不十分な理論に思えている。


おはなしとは、
「何か話しますよ」とはじまって、
途中があって、
「最初のものを再び言及するけど、
これでおしまい」
という形をしている気がする。

最初と最後が全く同じなのではなく、
最初が最後の前振りに上手になっていることが、
おはなしとしてまとまっているものの条件ではないか?

これはあくまで仮説だ。


しかし、
最初と最後が全く関係ないものは、
話として成立するだろうか?
それはただあったことの報告に過ぎず、
「意味をなしていない」のではないだろうか?

意味があることを話すのは、おはなしだろうか?

僕は、
何かしら意味のあることを話すべきだと考えていて、
(そう考えないシュールレアリストもいる)
意味のあることを話すのなら、
出だしと落ちは、関係がないといけないと思う。

そうでないと、
「どこからどこまでが話しか」が分からなくなるのではないか、
と考えるわけだ。

逆にいうと、
膨大な情報が溢れるなかで、
最初に言ったこととエンドに言ったことが関係していることで、
そこを結んでここからここまでおはなし、
と領域を区切るのが、
前振りと落ちの結びつきではないかと考える。
ここからここまで、という境界線であると。



まあ難しいことはどうでもいい。
面白い話を作ろうと思ったら、
最低でも前振りと落ちはしっかりしないと、
しっかりしないということである。

ということで前振りに戻ってきたので、おしまい。
posted by おおおかとしひこ at 18:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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