2018年10月21日

終わらない物語

延々と続き、作者すら複数に渡り、終わりが見えず、
一本の線というよりも網のような構造になってしまっている物語がある。
もはや物語という単数形ではなく、
物語群というべきか。

代表的なのはマーベルコミックであり、
宗教の物語であり、
科学の理論である。

これらは同じ形式をしている。


始まりがある。
誰かの旅が始まった。
その人は死んだりして意思を継ぐ者が現れる。
あるいはその人の旅自体も続く。
途中で出てきた人が主人公になり、
別の探求を始める(スピンオフ)。

こうして、どれも終わらない物語群となってゆく。


Xメンはマグニートーがナチスに捕まったところから始まった、
ミュータント(少数民族)の、自由を求める運動である。
マグニートーは悪の大王でもあるが主人公でもある。
プロフェッサーは主人公でもあり敵対者でもある。
そして私たちが最初に見るXメンはウルヴィであり、
彼が主人公のように思うと、
違う物語群が広がっていることに気づく。

ついでにそれらはマーベルシネマティックユニバースなんてな、
物語群へと転移しかかっている。

僕がかつて(中二の時に)夢中になった「幻魔大戦」も、
同様の物語群構造をしていた。

最近だと「るろうに剣心」がそうなろうとしていたが、
作者の不祥事で凍結したね。


これと、
宗教の物語は同一構造をしている。
仏教はそうだし、キリスト教もヒンズー教もそうだ。
登場人物が神仏だけど、
キャラと考えればほとんどマーベルコミックと同じだぜ。

あるいは科学も同様だ。
ギリシャ時代からはじまったそれは、
論文と実証を繰り返し、膨大な物語群となる。
知れば知るほど問いが増え、
最初の旅の目的、「世界はどうなっているのか?」
への答えは出そうにない。


終わらない物語。
それこそが人の営為かも知れないけど。

ちなみに、
そういう物語群によくあるパターン。

○の○の正体は、○だったのだ!

AのラインとBのラインを繋ぐ方法だ。
これで別々の物語を一つに出来る。

科学においても、量子力学と数学の虚数が、
波動方程式で一つになったりしたよね。


さて。
これらは人類の営為なのか、なんとも言えない。

物語は、このようなカオスで終えるべきではないと思う。
物語とはオチがついてなんぼだ。
オチこそが物語で、
オチこそがその意味だ。

GANTZのオチはクソだった。
それまでは最高だったのに。


オチをきちんとつけられないから、
物語群は広がっていくのみだ。

マグニートーの人生にはオチがなさそうだ。
少数民族は勝利しない。

宗教の物語群にはオチがない。
だから修行しましょうと現在に振られてしまう。

科学だってオチはない。
世界の目的や意味が完全に分かることはないだろう。


だからこそ、
私たちは、オチのある物語を書くべきだと思う。


今ひとつの新興宗教の歴史を調べていて、
その教義が物語そのもの(ラノベに変換できそうな)
であることを知った。

宗教とマーベルは同一構造なんだなあ、
なんて思ってしまったわけだ。


以前にも書いたけど、阿弥陀経は、
阿弥陀というキャラのキャラソンだ。
そんな風に、宗教と物語群は、同一だ。


オチをつけずに商売をつづけるのか?
オチをつけて次の物語を書くのか?
あなたは後者でいてほしい。

そういえば、
ガンダムは物語群になってしまったし、
エヴァもそうなるだろうなあ。
ベルセルクは終わるのかね。

一本の頭から尻までの糸を、
私たちは欲している。
posted by おおおかとしひこ at 22:00| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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