設定とストーリーそのものが分離しづらいのは、
こういう理由による。
設定はストーリーそのものではない。
にも関わらず、
設定だけ書いて、ストーリーを作ってしまった気になっている人は多い。
(だから実際の原稿が書けずストップしてしまう)
その誤解の原因にこれがあるんじゃないか、
ってちょっと思ったので、書いてみる。
ストーリーとは、
「何かをしそうな状態」の連続だ。
遅刻しそうな人が走っていれば、
「これから遅刻してしまって始まるドラマがあるのか、
間に合わない状態を回避するドラマがあるのか」
の二択を想起する。
それを考えながら(期待しながら)見るわけで、
つまり「遅刻しそうな人」というシチュエーションは、
そういうストーリーを「含んでいる」、
と見ることが出来る。
これは、設定と似ている。
「怒りっぽい性格」は、
「怒ったことで巻き込まれる騒動」というストーリーを含んでいる。
どちらも違いがないように見える。
だから、設定を作った時点で、
ストーリーが書けたような気がしてしまう。
「ストーリーが生れそうな場所」
を提供した時点で、出来た気になってしまうのだ。
それはあくまで種だ。
実際にどういう葉を出し、どういう根が茂り、どういう花が咲くかは、
そこには書いていない。
あくまでそれは「ストーリーが生れそう」にすぎず、
「ストーリーそのもの」ではない。
あなたは脚本家である。
実際のストーリーを書かなくてはならない。
もしあなたがプロデューサーだったり、
偉い監督であるならば、
「ストーリーの種」を脚本家に振って、
実際のストーリーを書いてもらうことになるかもしれない。
(しかし脚本家のほうが百戦錬磨で、
ストーリーの種をたくさんもっていたりするんだけど)
種を発芽させること、
つまり、
じっさいのストーリー展開や、
登場人物のセリフや、起こることの段取りや、
次に何が起こり、次に何が起こり、次に何が起こり……
最終的にどうなって落ちがつくか、
それはどういう意味があるのか、
などの具体を作るのが、
ストーリーを作る事である。
しかし、ストーリーの全部を作ることはなかなか難しいから、
「ストーリーが生れそうなもの」
をつくってしまった段階で安心してしまうのである。
実際には、
種は発芽して花が咲かないと、出来たことにならないにも関わらず、
種を作った時点で花を収穫した気になっている。
「ストーリーを作る」という行為を、軽く見ないことだ。
水をやり世話をし、間引きをしたり病気を治したりして、
丹念に花を咲かせて収穫することを、
軽く見ないことだ。
米一粒は、ごはんではないのである。
よさげな設定ができても、
それはほとんどストーリーではない。
2018年10月23日
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