2018年10月23日

ストーリーとは「何かをやろうとしている状態」の連続

設定とストーリーそのものが分離しづらいのは、
こういう理由による。


設定はストーリーそのものではない。
にも関わらず、
設定だけ書いて、ストーリーを作ってしまった気になっている人は多い。
(だから実際の原稿が書けずストップしてしまう)

その誤解の原因にこれがあるんじゃないか、
ってちょっと思ったので、書いてみる。


ストーリーとは、
「何かをしそうな状態」の連続だ。

遅刻しそうな人が走っていれば、
「これから遅刻してしまって始まるドラマがあるのか、
間に合わない状態を回避するドラマがあるのか」
の二択を想起する。

それを考えながら(期待しながら)見るわけで、
つまり「遅刻しそうな人」というシチュエーションは、
そういうストーリーを「含んでいる」、
と見ることが出来る。

これは、設定と似ている。
「怒りっぽい性格」は、
「怒ったことで巻き込まれる騒動」というストーリーを含んでいる。
どちらも違いがないように見える。

だから、設定を作った時点で、
ストーリーが書けたような気がしてしまう。
「ストーリーが生れそうな場所」
を提供した時点で、出来た気になってしまうのだ。

それはあくまで種だ。
実際にどういう葉を出し、どういう根が茂り、どういう花が咲くかは、
そこには書いていない。
あくまでそれは「ストーリーが生れそう」にすぎず、
「ストーリーそのもの」ではない。

あなたは脚本家である。
実際のストーリーを書かなくてはならない。

もしあなたがプロデューサーだったり、
偉い監督であるならば、
「ストーリーの種」を脚本家に振って、
実際のストーリーを書いてもらうことになるかもしれない。
(しかし脚本家のほうが百戦錬磨で、
ストーリーの種をたくさんもっていたりするんだけど)

種を発芽させること、
つまり、
じっさいのストーリー展開や、
登場人物のセリフや、起こることの段取りや、
次に何が起こり、次に何が起こり、次に何が起こり……
最終的にどうなって落ちがつくか、
それはどういう意味があるのか、
などの具体を作るのが、
ストーリーを作る事である。

しかし、ストーリーの全部を作ることはなかなか難しいから、
「ストーリーが生れそうなもの」
をつくってしまった段階で安心してしまうのである。
実際には、
種は発芽して花が咲かないと、出来たことにならないにも関わらず、
種を作った時点で花を収穫した気になっている。


「ストーリーを作る」という行為を、軽く見ないことだ。
水をやり世話をし、間引きをしたり病気を治したりして、
丹念に花を咲かせて収穫することを、
軽く見ないことだ。

米一粒は、ごはんではないのである。

よさげな設定ができても、
それはほとんどストーリーではない。
posted by おおおかとしひこ at 10:32| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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