焦点が一つしかなかったら、
ストーリーはとても退屈になるだろう。
「あれのあれはどうなったんだっけ」
というのが次々に出てくるから、長編というのは面白い。
そのひとつの焦点を、ストーリーラインという。
ストーリーラインの最初は、事件だ。
何かがおこり、これはどう決着がつくのだろう、
という疑問を提出していく。
あるいは、謎もそのひとつである。
「現在わかっていることはここまで、これ以上は謎」
というものがあり、その先を知りたくなるものは、
ストーリーラインを形成するといえる。
現実と違い、フィクションの物語で言及された謎は、
必ず解かれなければならない。
科学は謎を解いていく学問だが、
ストーリーの中にある学問は「答えは出ていない」ということをしてはならない。
嘘だと思ったら、
「ゾディアック」「マルホランドドライブ」
という微妙な作品を見てもやもやするといい。
僕は、この二作品は不完全なストーリーだと考える。金をとるレベルの出来ではない。
この焦点は、「伏線」と考えることも出来る。
多くの人は、前振りや焦点という専門用語を知らないから、
全てを伏線という言葉で理解しようとする。
伏線は事前に張るものと、あとで利用したものがある。
それを一緒くたに全部伏線扱いするのは、
分析の精度が甘いというものだ。
焦点が次の焦点に移ったとき、
新しい焦点が解決すれば、
前の焦点も解決したことになるだろうか。
なるならば、
その焦点の転換点=ターニングポイントは、
完全な転換をした、と考えることが出来る。
ならないならば、
そのターニングポイントは、
不完全な転換、伏線を残した、
と考えることが出来る。
意図してこれをコントロールしなければならない。
完全に転換したと思っていても、
まだやり残したことがあったりしてはいけないし
(デブリが残ったような状態になる)、
不完全な転換をしたと思っていても、
全然その残されたことに興味が湧かないなら、
意図的に残す意味がない。
意図してこれをやるとは、
たとえば完全に転換したようにミスリードして、
実はこれがまだ残っていたぞ!とあとで使うとか、
不完全な転換をわざと残しておき、
これを最後まで強力に引っ張ることで、
ストーリーの前進力に変える、
謎が残るがゆえに最後まで気になる、
という使い方がある、
ということである。
つまり、長編を書くということは、
こういった、
複数の焦点を使い分けて、
引っ張りと解決をコントロールする、
ということに他ならない。
主人公まわりでも複数のプロットが走るかもしれないし、
主人公以外の誰かのサブプロットでもそういうものが走るかも知れない。
それはストーリー次第だ。
(主人公以外のサブプロットのほうが面白くなってしまうと、
主人公が後退してしまう現象がある。
これはジャンプがずっと抱えている病だ)
このように、
焦点を複数使いわけて話をひっぱることは、
中盤までは必須のテクニックと言えよう。
しかし、これらが丁度うまく解決していく、
怒涛の終盤を組むのは、とても難しい。
これまでの伏線がドミノ倒しのように、
連鎖的に解決していかないと面白くならないからだ。
だから普通は、大きな焦点を3つとか4つとかに絞り、
連鎖を組みやすいようにするものだ。
たくさんの焦点を一気に処理した「トッツィー」
という傑作があるが、
これを僕はいつも心の中に大事にしていて、
これくらい上手にさばきたいなあ、
なんて思っている。
(ドラマ版「風魔」の12話はそれをやってみたかったのだ)
登場人物につきひとつは大体焦点を持っている。
(目的が大体あるから)
それをどううまく統合して、
伏線を一気に解消するかが、
カタルシスというものに関係すると思う。
ストーリーラインを分散することは誰にでもできる。
問題は、それをカタルシスを伴って収束できるか、
ということにある。
(伏線が残りまくり、
まったく解決しなかった駄作に、
「ファイアパンチ」がある。
解決できる実力がないから、
時間を飛ばすという愚行を数回行い、リセットを試みた。
最悪の出来なので、いちどチェックしてみるとよい。
こうなってはいけない、
という見本市なので勉強になるよ。
「これをどうすればよくなるのか」を考えることは、
とてもストーリー作りの勉強になるだろう。
まあ、芯がないからどうしようもないけど。
こんなものを「面白い」と言っていた輩は、
今どこで何をしているのかね。
瞬間最大風速ならば車田正美という天才のほうがよほど上だった)
2018年10月26日
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