無責任な面白さと、
責任のある面白さだ。
無責任な面白さの例。
「アルミホイルを叩いて鉄球を作ってみた!」
YouTubeに溢れる殆どの動画は、
この無責任な面白さを売りにしている。
「すげえ!」「まじか!」「おもしろーい!」
という動物的興奮、
その場限りの興奮が得られれば何でも良い。
つまりは刺激的な何かで、
後に残らない何かだ。
炭酸と同じだ。
パーティーと同じである。
パーティーに意味はない。
誕生日パーティー、受賞パーティー、
忘年会、フライデーナイトパーティー、
多少の冠はついているが、
基本的には旨い酒と料理と、
ひと騒ぎできればそれで良い。
明日になれば乱痴気騒ぎに過ぎなかったなあと思えば良いだけだ。
逆に、パーティーに意味がある場合を考えよう。
たとえば結婚披露宴。
極端に意味のあるパーティーとは、
たとえば天皇即位式だろうか。
つまりそれは、意味のある、責任を取るためのパーティーだ。
二人は結婚します、
天皇が次代を継ぎます、
という意味のための式典である。
つまり、人が集まり飲食や出し物で騒ぐとき、
意味がなく無責任で良い場合はパーティーとなり、
意味があり責任のための場合は式典になる。
映画は、後者であるべきだ。
しかし辛気臭くては面白くならない。
前者をやっているうちに、
いつのまにか後者にスライドして行くのが理想だ。
つまり、映画は、
無責任に面白くなくてはならないし、
責任を持たなくてはならない。
面白いは面白いが、
腹にくる感じがなく物足りなかったら、
それはパーティーでしかなく式典がなかったのだ。
何かヘビーなことを考えたが、
辛かっただけなら、
式典には参加したがパーティーがなかったのだ。
両方あるべきだ。
そもそも「面白い」という言葉が、
その両方を意味してしまうからややこしい。
「面白いが、面白くない」ということがあり得るのだ。
「なんでけなすんだよ。面白い(パーティー)だろ」
「面白いがそれだけだよ。本当に面白い(式典)ではなかった」
という会話が、
今日もどこかで聞こえているだろう。
ところで、YouTubeはパーティーの現場だ。
バズるのも、パーティーだからである。
そもそもそこに、(意味のある)広告をする意味が、
僕は本質を履き違えていると思う。
で、
「アルミホイルを叩いて鉄球にする」
というパーティーは、
「金属の展性、延性」という高校化学で習うことを復習して、
あるいは、
「何故金属結合には展性延性があるのか」
という大学レベルの物性化学をやると、
意味が出てくる。
柔らかい他の金属、例えば銅でも同じことができることを示したり、
逆にアルミ鉄球をアルミホイルに戻すこともできる、
ということをやると、
意味としては完璧になるだろう。
そのあと、金属結合の特殊性について、
他の物質との違いについてやれば完璧だ。
純粋な金属が合金によって硬くなる、
つまり展性延性を失うことについてもやれば、
さらに完璧だろう。
「金メダルを齧ったらほんとは歯の跡がつくから、
合金によって硬くしてる」
ということも、これらの一連を分かれば理解できる。
そしてYouTuberには、
その知識や知性はないし、
理系の研究者には、
「アルミホイルを叩いて鉄球を作ると、
パーティーで受けるぞ!」
という発想はない。
私たちは、
その両方の面白いを、
両立することを求められている。
ただの面白いではないのだ。
2018年10月26日
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