2018年10月26日

面白さには二種類ある

無責任な面白さと、
責任のある面白さだ。


無責任な面白さの例。
「アルミホイルを叩いて鉄球を作ってみた!」

YouTubeに溢れる殆どの動画は、
この無責任な面白さを売りにしている。

「すげえ!」「まじか!」「おもしろーい!」
という動物的興奮、
その場限りの興奮が得られれば何でも良い。
つまりは刺激的な何かで、
後に残らない何かだ。

炭酸と同じだ。

パーティーと同じである。


パーティーに意味はない。

誕生日パーティー、受賞パーティー、
忘年会、フライデーナイトパーティー、
多少の冠はついているが、
基本的には旨い酒と料理と、
ひと騒ぎできればそれで良い。
明日になれば乱痴気騒ぎに過ぎなかったなあと思えば良いだけだ。

逆に、パーティーに意味がある場合を考えよう。

たとえば結婚披露宴。
極端に意味のあるパーティーとは、
たとえば天皇即位式だろうか。

つまりそれは、意味のある、責任を取るためのパーティーだ。
二人は結婚します、
天皇が次代を継ぎます、
という意味のための式典である。

つまり、人が集まり飲食や出し物で騒ぐとき、
意味がなく無責任で良い場合はパーティーとなり、
意味があり責任のための場合は式典になる。


映画は、後者であるべきだ。

しかし辛気臭くては面白くならない。
前者をやっているうちに、
いつのまにか後者にスライドして行くのが理想だ。

つまり、映画は、
無責任に面白くなくてはならないし、
責任を持たなくてはならない。


面白いは面白いが、
腹にくる感じがなく物足りなかったら、
それはパーティーでしかなく式典がなかったのだ。

何かヘビーなことを考えたが、
辛かっただけなら、
式典には参加したがパーティーがなかったのだ。


両方あるべきだ。


そもそも「面白い」という言葉が、
その両方を意味してしまうからややこしい。

「面白いが、面白くない」ということがあり得るのだ。

「なんでけなすんだよ。面白い(パーティー)だろ」
「面白いがそれだけだよ。本当に面白い(式典)ではなかった」
という会話が、
今日もどこかで聞こえているだろう。


ところで、YouTubeはパーティーの現場だ。
バズるのも、パーティーだからである。

そもそもそこに、(意味のある)広告をする意味が、
僕は本質を履き違えていると思う。


で、
「アルミホイルを叩いて鉄球にする」
というパーティーは、
「金属の展性、延性」という高校化学で習うことを復習して、
あるいは、
「何故金属結合には展性延性があるのか」
という大学レベルの物性化学をやると、
意味が出てくる。

柔らかい他の金属、例えば銅でも同じことができることを示したり、
逆にアルミ鉄球をアルミホイルに戻すこともできる、
ということをやると、
意味としては完璧になるだろう。

そのあと、金属結合の特殊性について、
他の物質との違いについてやれば完璧だ。
純粋な金属が合金によって硬くなる、
つまり展性延性を失うことについてもやれば、
さらに完璧だろう。

「金メダルを齧ったらほんとは歯の跡がつくから、
合金によって硬くしてる」
ということも、これらの一連を分かれば理解できる。


そしてYouTuberには、
その知識や知性はないし、
理系の研究者には、
「アルミホイルを叩いて鉄球を作ると、
パーティーで受けるぞ!」
という発想はない。


私たちは、
その両方の面白いを、
両立することを求められている。

ただの面白いではないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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