非日常のことが起こったとき、
それを認めることがなかなか難しく、
「すぐ日常に戻るだろう」と思い込み、
あるいはその非日常を認めたくないがゆえに、
なるべく日常のようなふるまいをしてしまう現象。
これは登場人物の心理でも起こりうるし、
我々作者の心理でも起こる。
物語とは、非日常のことである。
死にそうになったり、
社会的立場を失ったり、
大切なものをなくしそうになったりする。
誰かの悪意にさらされたり、
誰かにドラマティックな親切をされたりする。
いつもじゃない、非日常だから物語になるわけで、
いつものような日常だと、物語として語る価値はあんまりない。
これに、日常性バイアスが敵になる。
たとえば津波が来ているというのに、
「まさかここには来ないだろう」という日常性バイアスがかかって、
逃げずに死んだ人は多いかもしれない。
あるいは、告白する/されるという非日常を認めたくなくて、
なるべくいつもの習慣を崩そうとしない人もいるだろう。
(友達でいようという心理)
色々なレベルで、日常性バイアスは、
人の行動を規定してしまう。
それを物語に生かせれば、
なかなかの人間の本質の観察をしている作品になるはずだ。
で、本題。
これは、登場人物ばかりでなく、
我々作者にも起こりうる。
どういうことかというと、
毎日書くときに、
昨日書いていたテンションを今日忘れていて、
「今の作者の日常の感覚から始めてしまう」ことが、
稀によくあるのだ。
ついつい、日常のどうでもいい危機レベルの感覚から書いてしまうことが、
まれによくある。
物語の中が、ちょっとミスしたら死ぬ、みたいな、
とても非日常の、異常な興奮状態になっているにも関わらずだ。
それは、作者の日常が平凡だから、しょうがない。
問題は、
「私はいま日常の延長でいるのではなく、
非日常で現実とは全く違う物語世界を書いているのである」
という自覚が、作者に薄いときがある、
という点である。
風呂入って寝て、起きてニュースとかを見て、
会社にでも行ってしまえば、
もう物語の中の魅惑的な危険世界のことは、
すぐに頭から飛んで行ってしまうものだ。
だから執筆を再開したときに、
すぐに主人公の気持ちにログインしきれないことがあって、
とても無駄なことを何ページも書いてしまうことが、
稀によくあるのである。
リライトをするとき、
そういう日常性バイアスが働いて、
いま危機の文脈のはずなのに、
作者の日常の感覚で書いてしまっていたところを特定しておくとよい。
そうでないと、
物語のテンションが一定に保てなくて、
ぬるい部分が時々出てくることになる。
つまりは、
作品内の時間のテンションと、
作者の日常からのログインのテンションが、
合っていない部分が散見される、ということである。
これは慣れたら出来るのかも知れないが、
慣れててもしょっちゅうやってしまいがちなことである。
(日常があまりにもつまらなくて、
作品世界に逃避するパターンだと、
そうでもないかもしれない。
日常世界が舞台になった、リアリティ寄りの作品のほうが、
混同が激しくなると予想される)
これは、書いているうちはなかなか自覚できなくて、
リライトのときに発見することが多い。
どうしてここはテンションが低いのだろう、
もっと切羽詰まるべきなのに、
なんてことを、リライトで思ったりする。
一連の文字列になってしまった原稿では、
「ここで日をまたいで、テンションが日常に戻っしまっただからだ」
なんてことまで記録していないから、
そこが境目であることすら分からないかもしれない。
(手書きならまだその手掛かりはわかりやすい)
と、いう事で、
こういうことはリライト時に気づく。
テンションを保つために、
そういうことが常にチェックできるだろうか。
ああ、そういうことが原因か、
なんて知っていると、
ここは執筆時に乗りが悪かったなあ、
なんて思い出して、
もっと乗って書かなくてはならない、
ということに気づきやすいかもしれない。
2018年10月28日
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