この展開は、ムービーにしかできないことだ。
思う前(偏見やぱっと見)、
実はを知ったあと、
知る過程、
の三つを時間軸として持ち、
その変化こそが面白いからである。
ということは、
それらが逆であればあるほど面白い。
不良だと思っていたが、子猫を拾うほんとは優しい人。
クールだと思っていたが、ほんとは熱いやつ。
いい人だと思っていたのに、ほんとは酷い人。
仲間だと思っていたのに、手のひら返された。
無関係だと思っていたが、深い関係があった。
そう思っていたのは誤解で、ほんとうは○○だった。
これらは展開として作りやすいし、
落差を生めるし、
いつでも使える技である。
初登場時、第一印象に逆を仕込んでおけばいいだけだ。
ほんとうの姿がわかると、
防衛本能で粗野になっていただけだ、とか、
熱さを隠すために、とか、
よく思われたい利己的だった、とか、
計算づくだったのか、とか、
知らない自分が馬鹿だったとか、
などと、
表面上のことが遡って「再解釈」される。
認識の変化によって、
世界が違って見えるようになる。
この変化こそが、私たちがムービーを楽しむ理由だ。
これが人に関することであれば、人間ドラマになるし、
謎に関することであれば、謎解き(ミステリー)になるというわけである。
こういうことは、点、
つまり写真やポスターや設定資料だけでは困難である。
勿論設定に、「一見クールだが実は熱い」と書くことは出来る。
しかし、最初そう思っていたが、
なにかをキッカケにガラリと認識が変わる面白さは、
設定をただ書いたとしても実現しない。
線としてのドラマを作らないと実現しないだろう。
そしてその線をどうやって組むかが、
私たちの苦労する部分ということ。
「一見○○だが、実は○○だった」
というパターンは、
必然的に、
「偏見や先入観にとらわれてはいけない」
というテーマを内包する。
黒人白人もので、
「一見悪く見えた黒人が実はいい人」
「一見良識あるように見えた白人が実は悪人」
なんてのは最もよくあるパターンだろうね。
「私たちはなんと表面的なことにとらわれがちなのか。
もっと本質を見極めなくては」
というテーマを必ず内包しているくせに、
私たちがガワに騙されるのはなんでだろうね。
まあ、
我々はガワと中身を逆にして、
その落差をつけたトリックを作っているのだが。
2018年10月28日
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