2018年11月04日

【薙刀式】手書きとタイピングの使い分け

こんだけ配列のことをやってるくせに、
僕は原稿のしょっぱなは手書きで書く。
(ブログやメールはタイピングかフリックだけど)

スピードそのもの(くずし字で書くので多分タイピングより速い)や、
漢直であることから、
脳との直結具合は手書きの方が上だと考えているのだが、
今日色々やってて、
手書きは「文字を飛ばして書ける」ということに気づいた。


「思考が蒸発するまでに書きたい」
というのは、全ての物書きの欲望だろう。
しかし思考というのはどういう形なのか、
我々はよくわかっていない。

静止した物体のようなものなのか、
時間軸で変調する音楽のようなものなのか、
その両方だとしたら、
両者の混合の差を分けるのはなんなのか、
とんと分からない。

とにもかくにも、
我々はその不定形のものを、
シーケンシャルな言語というものに落とし込む。

で、最初のあたりを書いていると、
後半に当たる部分が蒸発して忘れてしまう、
ということが、
とてもよくあるわけだ。

とくに閃きのような、
二度と訪れないものを記録しようとするとき、
言語はなんと遅いものかともどかしい。


で。
今日は原稿を手書きで書いてたんだけど、
蒸発しそうなときどうするかというと、
「今書いてる部分を飛ばして(たとえばーーーーと線を引いて)、
先に書いてしまう」
なんてことを、
ちょいちょいやっているのに気づいた。

あるいは、
「語順を途中で変えてしまい、
書き終えてから語順を手書きニョロ記号で変えてしまっている」
ということにも気づいた。

なるほど、
これはタイピングでは難しい。

どうしてもタイピングだと、
逐次変換していかないといけない。

勿論、
最悪全部ひらがなで打ち、
語順変更や省略記号も打ち、
あとで解読しながら整形する、
というやり方もなくはない。
(議事録をそうしてやってる人もいるよね)

でも、あとで戻ってそこを書き直すのは、
手書きの方が圧倒的に楽な気がした。
なぜなら、
手書きは「まともな日本語になってなくても、
ある程度意味をなす」からだと考えた。

字の大きさや勢いで、
ある程度の「言いたいこと」が理解できる。
ある種の速記記号というか、
体の動いた軌跡みたいになっている部分もある。

勢いのあるときに「、」「。」なんて書き分けられない。
どっちも「.」みたいな点になる。
あるいはペンを置いて考えたときに「.」になってしまっている、
文節間記号もある。

僕が手書き原稿から第一清書稿を起こすときは、
これらの解読や、
日本語として通りのいい言い方に変えることも含める。

なので、単なるコピー打鍵ではなくて、
「オレオリジナル言語」みたいなのを、
「読める日本語に変換する」作業みたいな感じになることもある。


この、中間言語のようなニョロニョロは、
やっぱ手書きなんだよね。
これをタイピングで表現するのは無理だろう。
まともな日本語になってないものを、IMEは変換しづらいし。

無論、
レイアウトフリーであるところ、
消した部分の復活が楽なところ
(ボールペンなので、×をつけるか「イキ」と書き直すかでしかない)
は、手書きの方が圧倒的有利だろうね。

漢直とはいえ、忘れた漢字もあるから、
適当文字で書けるところも手書きのいいところ。
(どうせあとでタイプするときにちゃんと調べる)


これでいうと、
僕の手書き原稿は、
原稿未満の部分を残して、
「あとはタイピングでちゃんとやる」
の状態で完成なのかも知れないなあ。

ということは、
そんなものにタイピングが勝てるわけないかもだ。
IMEもエディタもキーボードも、
そんなものを作るためには設計されてないよね。


思考はランダムアクセスで、
タイピングはシーケンシャルな行為だ。

シーケンシャルだと蒸発するときは、
ランダムアクセスな書き方の、
手書きの方が、
多少失われても復元できる。

デジタルメディアだと消えたら0だけど、
アナログメディアだとちょっとは残ってる、
みたいなことか。

とくに僕の思考は脳内発声を伴わない、
シーケンシャルなデータ構造をしてないものだから、
こういう書き方が合ってるのかもしれない。


とくに複数の人格が頭の中に同居して、
同時にそれぞれの思考をするような、
物語というジャンルでは、
あるシチュエーションで同時に複数のキャラが脳内で思考し始めて、
それを書き留めるのはタイピングじゃ難しい。

カタナ式も薙刀式も、
「物語を書く配列」なんて名乗っているものの、
そんなことには全く未対応だなあ。

手書きだと
「右に書いたセリフはAの、左に書いたセリフはBの、
上に書いたセリフはCの」なんて
二次元レイアウトをしながら時間進行してしまえるが、
タイピングと普通のエディタでは無理だ。
(イラレなどで書けばまた別か。
京極夏彦はイラレで「姑獲鳥の夏」を書いたらしいが)


一方、
「入稿や印刷可能な、通りのいい日本語を書く」
ことにおいてはタイピングのほうが強いだろう。


僕はこんな感じで、
手書きとタイピングを使い分けております。

手書きは主観的に、タイピングで客観的に。
そうやるとバランスがいいみたい。

物書きかつ薙刀式に興味がある人は、
どれくらいいるのか全く不明ですが、
参考までに。
posted by おおおかとしひこ at 23:42| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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