2018年11月08日

事件は現場で起きている、会議室ではなく

「踊る大捜査線」の名台詞は、
この考え方を広まらせたことだ。
この考え方は、日本の現場サイドが、
会議室の小田原評定にイライラしていることへの、
タンカだった。

で、ちょっと思ったのが、
これって原作ナウシカのラストと同じなんじゃないかってこと。
以下原作ナウシカのネタバレに言及します。








原作ナウシカのラストは、
映画版とは全然違う。
王蟲と和解し、腐海とともに地球を浄化しよう、
と希望のある映画版ラストは、
原作ナウシカ第一章のラストに過ぎない。

原作ナウシカは、その後ずっと続く。
粘菌の国など、他の森の民との物語が続く。

で、ラストに、
我々が人類だと思っていたのは、
核戦争後に遺伝子操作された人造人間だと分かる。
腐海で生きていけるように改造された人類で、
腐海浄化後、ほんとうの人類が目覚めるまでの、
つなぎの人間だったのだと。
王蟲や蟲たちも、腐海浄化のための人造生物であったのだと。
(ちなみに今生きている、
ナウシカふくむ人造人間や蟲たちは、浄化された世界では生きられない)

巨大な図書館(人類の文化遺産がすべて眠っている)と、
眠る人類を、
ナウシカが焼き払う、
というのが衝撃的なラストだ。

それは親殺しであるとか、
自然や進化に期待するとか、
いろいろな文脈で読まれているけど、
今回ふと思ったのは、
「踊る大捜査線」の考えにふと至ったからだ。

日本の現場は苛々している。
会議室は決断が遅い。

現場が行きたくても、会議室の承認が遅いため、
いくつものチャンスを逃している。
チャンスの波は何回もこない。
日本の現場は、会議室の所為で実質チャンスを何回も逃し、
波に乗り遅れ、時代から遅れ続けている。

その苛々を、殺人現場という緊急現場に持ち込んだのが、
「踊る大捜査線」の名台詞、
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」だ。
これは多くの現場で、
会議室にイライラしている人たちに、
ストレートに刺さった。
「踊る大捜査線」は、刑事ものの形式(ガワ)を借りた、
会社もの(中身)であったわけだ。


で、ナウシカだ。
宮崎は現場の人である。
会議室の人が嫌いだろう。
会議室とは、映画の製作委員会などだろう。
物販のことや倫理表現のチェックや、
タイアップのことなど、
つまりは、現場からしたら、
「せっかくよくなっているものに、
ブレーキをかけることしかしない人々」
である。

そのブレーキさえなければ、
何倍もよくなるのに。
現場から見た会議室はこうだ。

僕は会議室にいたことがないから、
会議室でその現場の空気がどう伝わっているか、
よくわからない。
(現場ではそうかもしれないが、
会議室ではそう決定していない、という空気はよく感じる)
少なくとも、
現場の苦しみや喜びが何一つ伝わっていないことは、
会議室の反応を見ていればわかる。
会議室で思いもよらなかったことを、現場でつくれそうなとき、会議室でブレーキがかかって、
全部台無しになる場面は、
僕はいくつも見てきた。


日本の会議室は、現場から遠すぎる。
そもそもスーツ着てる意味がわからない。
スーツは現場じゃない。
ものづくりというのは泥だらけの格闘であり、
そこから蓮の花を咲かせることだ。
右のものを左に動かすことではなく、
泥からまったく予想もつかない花へ昇華することだ。
空調の効いた温室のような無菌室で、
あれこれと比較検討することではない。


というような、
現場から見た会議室への不信が、
「眠れる弱き人類を焼き払う」
という行為に出させたのではないか、
と昨日ふと思ったので、
これを書いた次第。

会議室の擁護を、僕は出来ない。
僕は現場の人だからだ。
ただ、ぶくぶく太った図書館の坊ちゃんのような描き方を見る限り、
「それがなんになるのだ」
とナウシカや我々に思わせるように誘導されていることは確実だ。

会議は必要なのだろうか。
現場だけで出来ないのか。
お金やプロジェクトは、会議室からしか生まれないのか。
現場だけで出来ないのか。

そのへんが良く分らない。
事務方と現場の解離がどうして生まれていくのか、
僕にはわからないんだよね。
税金とか法律が現場から解離しているから、
その専門の人が経理をやり、
経理が経営計画を立て、
経営計画のために会議室があり、
そこでの決定が現場より優先されるから、
現場との解離が進むんだろう、
と僕は予想している。

つまり僕が経営者になれば、
その謎も解けるとは思っている。

いや、僕は一生現場にいたいんだ。
図書館にこもらず、
ナウシカのように風の中で生きていたいんだ。
宮崎は左翼だから、そういったアナーキストの面もあるのだろう。


先日の現場で、
土砂降りで太陽がなかなか出なかった。
結局一日二回しか出なかった。
その一回を、衣装決定の会議室待ちで失った。
その必要、ある?
僕にはわからない。
その会議室に7人はいたかな。

7人の意志がひとつになるまで待つのは、
太陽が出るまで待つことより価値がある事だろうか。
僕にはわからない。

ナウシカが会議室を焼き払う気持ちが、
理解できたよ。


現場の一挙一投足が、
会議室の背後にいるたくさんの団体の利益不利益に影響する。
だから会議室はそれを調整する。
その決定を待つ間、現場は止まる。

これが民主主義のベストの方法だろうか。
もっといい方法はないものか。

日本の会社システムは、
曲がり角にきたまま、
現状を変えようとしないで、
移民(アウトソーシング)に丸投げしようとしている。


僕の本音は、哲人政治の及ぶ範囲で、
戦いに出かけたい。



(いまこういう中身を、
目新しいガワでコーティングすると、
面白い物語が書けると思うよ。
たとえば人工知能と移民の話とか)
posted by おおおかとしひこ at 19:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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