その人が文章を書きなれているかどうか判断する、
簡単な方法がある。
難しい言葉をなるべく使っていないかどうかだ。
内容がそもそも難しいなら、
その言葉を使わざるを得ないかも知れないが、
それでも初見の人に分かるように、
うまく説明してから使うならば問題ないかも知れない。
あるいは、
身近な言葉でたとえてしまい、
以後ずっとそっちを使うというテクニックもある。
文章を書きなれていない人は、
わざと難しく書こうとする。
カッコつけたい中二病もあるし、
自分のIQを高く見られたいというのもあるし、
逆に、
自分が薄っぺらい内容だと知られたくない、
防衛でやることもある。
おそらくほとんどの人が書く、
最初の物語は、
硬くて、わざと難しい言葉を多用した、
入り組んでいるように見えるが、
本質だけ見たらぺらぺらのものだ。
それはまだ、硬いのだ。
手足がカチコチの運動選手だ。
もっと慣れた人は、
日常動作のようにやる。
日常で使う言葉だけで、
上手に描写し、
上手に笑わせ、
上手に泣かせる。
それは、人の人生は日常にあり、
硬くて自己防衛する難しさの中にはないからだ。
あなたがハッタリを利かし続けるアフィリエイトブロガーならば、
わざと難しい言葉を使う、
詐欺師や詐欺弁護士や詐欺技術者や詐欺営業ならば、
難しさの方が日常かも知れないが、
そんな人は過半数ではない。
ほんとうの人生は、
もっと簡単なことばで生きている。
哲学書を難しい言葉で訳すのは、
誰にでも出来る。
ドイツ語の日常の言葉で書かれた書を、
中二専門用語で訳すのは、
慣れてない人でもおそらく出来る。
それを、日常の日本語に訳せるかが、
書き手の腕だと僕は思う。
般若心経の超現代語訳は素晴らしい。
言葉を使い慣れた人の仕事だと思った。
「超スゲェ楽になれる方法」のやつだ。
新しいアイデア、
イコンになるアイデアは、
難しい言葉を使わない。
日常の平易な言葉で表せる。
あなたが難しい言葉を使って、
なにかを表現したと感じているのは、
まだまだヨチヨチ歩きの、
防衛本能にすぎないのだ。
転び慣れて、立ち上がり慣れれば、
そんな硬い言葉じゃ伝わらないとわかってくるはずだ。
もっとたくさん書いて、
転んで、立ち直る経験を積むことだ。
なにせ手書きなら、ほとんどタダで出来る。
日本はいい国だ。何百円で書く道具が揃う。
PCに何万も払う価値はない。どうせ糞qwertyだし。
何枚も、何百枚も、
何本も、何百本も、
手書きで紙に書こう。
書くことが日常にならないと、
平易な言葉遣いで、
伝わる言葉で、
伝わる内容を表現することに、
慣れることができない。
手書きで書くと文章が洗練される。
書くことが日常動作になるからだ。
成功の裏にはたくさんの失敗がある。
すっと伝わる文章は、
読んでて楽しい文章は、
硬さがほぐれるまでの鍛錬の時間があったのだ。
その失敗と立ち直りを、
若いうちにたくさんやっておきなさい。
たとえば。
ツイッターでたまたま、
「八咫烏と舞う小夜」なるタイトルを見かけた。
「八咫烏と舞う夜」だとイマイチだと感じて、
わざわざ「小夜」にしたのだろう。
その余計な小細工が、防衛本能で、硬く見える。
「烏と舞う夜」「烏と踊る」「踊る八咫烏」くらいに削ぎ落とした方が、
いいタイトルに見えるというものだ。
(内容を知らないのでベストのタイトルかまでは判断できない。
また、「さよ」なる人物名かも知れない。
にしても分かりにくいが)
いい文章はリズムがいい。
音のリズムがいい。
概念のリズムがいい。
使う概念が少なく、組み合わせ構造がシンプルであることが多い。
それだけ、本質的な言葉を使っている。
書き慣れていない文章は、
周辺の言葉でごまかしているから、
中身がないのだ。
真ん中の言葉は、そもそも音節数が少ない。
大事なことを伝えるのは、音節数の少ない言葉だ。
2018年11月10日
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