2018年11月11日

人は意味を探す(「ボヘミアンラプソディー」評2)

脚本論の立場から、テーマについて考える。
伝記ものだから、映画にテーマなどないのかも知れない。
でも、
ある人の人生を追いかけた時、
人はその人生に意味を見出したくなる。

この映画ではどうだったか。

一応ネタバレにつき改行。







ラストのタイトル、
エイズ基金だね。

フレディの人生が素晴らしく燃焼したものであればあるほど、
それを永遠のものにして、
エイズ基金で人助けになった、
そういう「人生の意味」が、
私たちはどうしても必要とするらしい。

逆に、エイズ基金がなく、
コンサートで終わったとしよう。

「ああ、生きて、歌いきって死んだんだな」
しかなくなる。
それを一段別格に上げるための映画的表現が、
ラストのエイズ基金のくだりだ。


つまりそれによって、
この映画のテーマが決まる。

「素晴らしい才能を持った、
孤独だった男は皆に愛され、
彼と同じ不治の病に倒れた人を勇気付けるイコンとなった」

ということだ。


僕は、
この映画は服屋の彼女との、
恋愛というか友情が軸になると思って見ていた。
そこに一番ドラマがあったからね。

第二ターニングポイント、
「僕は何のために生まれたのか」
と言う時、
フレディのファン全員が、
「to love you」の言葉を胸の中で思い出したはずだ。
だから僕は泣いた。
その前に、ちゃんと「take care of」の言葉をセリフに入れ込んでいるのも、
にくいと思ったなあ。

だから、「I was born to love you」が、
大トリに来るんだと身構えた。

「ママ」から始めたボヘミアンラプソディーのニクい演出から、
そこに帰着するのだと。

このときのyouは、服屋の彼女のことだけでなくて、
観客みんなのことだと思う。
英語はyouが単複同型だから、
ダブルミーニングも出来るよね。

でも、もう一つのサビ、
I was born to take care of you
のyouは、彼女のことではないかなあ、
と、第二ターニングポイントで想像したんだ。

take care ofは、中学生で習う熟語だけれど、
訳出が難しいよね。
とりあえず第一義としては「世話をする」だけど、
これは母親やメイドが主語ならそうだ。
男が女に、だったら「いつでも構ってあげる」
と訳出することもできる。
戦闘中の兵隊なら、「常に警戒している」とも訳せる。
原義はケアをいつもしている、と言う意味だからだ。
(ケアは日本語に訳せない)

ゲイが元カノにtake care ofだとしたら、
男女的ないつも構うではなくて、
「いつも君のことを心配してるから、
いつでも呼び出してくれ」
という意味になると思う。
その為に俺は生まれたんだ、と。

なんと素晴らしい、広義の愛の言葉か。


これを原語の4音節で訳出する言葉は、
残念ながら日本語にはない。
英語の強さはこういうときに出る。
ロックは英語だというのはこういうことさ。


大トリが「I was born to love you」だったら、
フレディがずっと孤独に迷い、
アイデンティティに迷い、
それでも電気を点けたり消したりした、
きみのことを思っている、
それが僕の生まれた意味だ、
というテーマに、
すとんと落ちたはずだ。

そしてyouが単複同型であることから、
それは彼女だけでなく、
観客や、
メンバーや、
新しい恋人や、
飢餓に苦しむアフリカや、
クイーンを追い出した男をも、
愛するために生まれたのだ、
という結論になったと思う。

孤独で誰かに愛されることを望んだ男は、
人生の最後にそんなことはどうでもいい、
愛する男になることを選んだ。

そういう話に帰着するのだと。


ていうか、第二ターニングポイントで、
僕はそこまで想像したから、
熱い涙を流した。

ううん、ソロ時代の曲と知っていれば…
涙返せ。



おそらく、
最初の脚本は僕の想像のようになっていたはずだ。
しかしレコード会社移籍の件で、
あのような描き方になってしまったとき、
「クイーン」中心の構成となったとき、
CBSの曲を大トリで使うことは出来なかったのだと、
想像に難くない。

今回の音楽監修でブライアンメイが入っていて、
それは音源提供として素晴らしいのだが、
(ラストは口パクに見えないよね)
それと同時に、
I was born to love youは使えなくなったんだろうなあ。

テーマを取るか、
音源提供を取るか、
プロデューサーも監督も悩んだに違いない。

脚本家的には、音源提供の全面協力を蹴ってでも、
テーマに帰着するべきだ、
と主張するだろうけどね。


とってつけたような、
ラストのエイズ基金の話は、
フレディの人生に意味を与えた。

ていうか、
意味がないように見えては、
これまで見てきたのがなんやったんや、
と宙に浮いてしまう。


テーマは、
観客が、これは意味があったのだ、
と納得するためにある、
と僕は主張している。

フレディの孤独を癒したのは、
あれだけの観客だったと思う。

パキスタンの出っ歯男は、
フレディマーキュリーになれたのだ。


(一部観客の合成が、同じものを使いまわしているのがバレていて、
大変悲しい気分になった。
あと監督がブライアンシンガーだと後で知る。
流石ゲイの距離感は上手だ。俺にはできん。
しかしお前スーパーマンでも股間のアップ抜きまくってたよな、
まったく…)
posted by おおおかとしひこ at 12:13| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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