2018年11月12日

そもそも表現は、何かを表現するために表現するのではない

表現されたものを、
最初からコントロールして、
表現するのではない。

表現しようとして、最初から計画し、
その通りに表現するのは、
論文や、主張や、ドキュメンタリーである。

フィクションの物語は、そうやって作らない。


フィクションには、テーマというものがある。
これを、作者の主張と混同してはいけない。

これを表現するために、
どういう表現をすればいいか、
あれこれ表現を考えるのは、
フィクションの作り方として間違っている。

それはプロパガンダの作り方であり、
論文やドキュメンタリーの作り方だ。

フィクションはそうやって作らない。
色々面白いことをやっているうちに、
「できた」というのが正しい作り方だ。

いや、正しいもくそもない。
そうやってでしか出来ないものが、
フィクションのストーリーになる、
というのが現状を捕らえているような気がする。


戦争反対をテーマにして、
機械文明を信奉する帝国主義の国と、
自然を愛する少女の対決なんてつくっても、
それはプロパガンダにしかならない。

それはテーマのためにモチーフを選んでいるからで、
それはある主張をするときに、
言葉を選んでいることと、なんら変わりないからである。

フィクションの物語の作り方は、
少女と機械帝国の対決が面白おかしく作っているうちに、
なんとなくこれは戦争反対のテーマにたどり着きそうだ、
と、途中で気づくものである。

だとすると、機械と自然を対比的にえがいておくほうがいいかな、
なんて足していったり、
彼女が戦争というものについて、
どう考えているか、敵がどう考えているかをつくり、
対極的に創作すべきだな、
と判断したりするものだ。

テーマを設定してそれにぴったりなモチーフを探すと、
教科書的な、道徳的な、説教的な、
ものしかつくれない。

逆だ。
モチーフを面白くして、
それに浸っている間に、
テーマが自動的に形を持ち始めるのである。

逆に、テーマがいつまで経っても立ち上がらない物語は、
モチーフのガワだけのお祭り騒ぎでしかない。

ミルクをかき混ぜている間に、チーズが出来たのであって、
チーズを作る為にミルクを採取するのではないのだ。


論文や主張を書くときは逆で、
「テーマにぴったりのモチーフを見つける」
がスタートになるだろう。

表現の内容こそが重要だから、
もはやいい感じのモチーフを探す必要すらないかもしれない。
(フォトジェニックなモチーフを探すことは、
主張を注目させるための、戦略に過ぎない)


フィクションは逆の作り方をする。
モチーフへの愛ありきではないだろうか。
これをいじっているうちに、
「こういうテーマに到達する物語になるぞ」
と予感することが、
プロットの初期に起こるべきだ。

だから、テーマは「自動的に出てくる」のである。

それはおそらく自分の無意識からやってくるのだろう。
普段問題と思っていることや、関心ごとから出てくるのだと思う。

モテないやつやさびしいやつが、
そんな感じの話を書きがちなのは、
無意識から出てきているからである。

そういうやつは一回それを昇華したほうがいい。
リアルワールドでもフィクションワールドでも。

振られた人が名曲を書くのはよくある話だ。
ひょっとしたら名作が書けるかもしれないから、
やるだけやるといい。
それはたいち凡百の中に沈むだろうが、
一回やっておくと、次の覚悟が違うというものだ。
なにせ、一回やったら別のことをするのが創作だからね。


あれ?
自分の中に、テーマになるような、なにかがあるっけ。

そのうちそういうことにも気づくはずだ。
世の中に何か主張したいことってあったっけ。
分析してみせたい何かってあったっけ。

なくてもいい。
フィクションは主張ではないから、
あなた自身が何か世の中にいわなくても良いのだ。

これを書いていれば、そういうテーマで一気通貫できるぞ、
ということを発見すればよくて、
それは一気通貫することが重要だ。

そのテーマが無意識から出て来たら、
たぶん現代の何かとリンクしてはいるだろう。

テーマが素晴らしい、ということはフィクションの物語では滅多にない。
それよりも、ストーリーが面白いとか、
キャラクターが魅力的であるとか、
ガワがいいとか、
そっちのほうが重要だ。

ということで、
テーマについて、大迎に考えるべきではない。
そんなことしたって、
中学生の弁論大会か、政治おじさんのツイートみたいになってしまうだけだろう。

これをこうやっているうちに、
このような結論になる話になるな。
そのように発見できればよい。

逆に言うと、テーマは最後まで厳密には確定しない。

大体のことはできているようだが、
なにを言い出して、なにをどう決着つけるかは、
書いてみないと詳細は見えてこない。

一回書き終えて、
詳細にテーマが確定した時点で、
まだ出来立てのテーマを見ながら、
それにちゃんと着地するように、
技術で前振りや伏線を作って、
きちんと見れるものにリライトで整えていくものだと、
思っていたほうがいい。


フィクションの表現は、なにかを表現するために表現するのではない。
それそのものを表現していると、面白いからやっているだけだ。

言葉を選び、組み立てていく論文や主張とは、
逆の作り方であることを、分っていたほうがいいかもしれない。


なのにどちらも、
よくできたものは、
テーマにきちんと帰着するように出来ている。

まことに人間の作り出すものは、
面白いものだ。
人工知能にゃ無理なことだね。


とにかく素材をかき混ぜろ。
あなたが集めてあなたがかき混ぜるのだから、
なにかしらテーマが立ち上がるものだよ。
posted by おおおかとしひこ at 11:01| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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