表現されたものを、
最初からコントロールして、
表現するのではない。
表現しようとして、最初から計画し、
その通りに表現するのは、
論文や、主張や、ドキュメンタリーである。
フィクションの物語は、そうやって作らない。
フィクションには、テーマというものがある。
これを、作者の主張と混同してはいけない。
これを表現するために、
どういう表現をすればいいか、
あれこれ表現を考えるのは、
フィクションの作り方として間違っている。
それはプロパガンダの作り方であり、
論文やドキュメンタリーの作り方だ。
フィクションはそうやって作らない。
色々面白いことをやっているうちに、
「できた」というのが正しい作り方だ。
いや、正しいもくそもない。
そうやってでしか出来ないものが、
フィクションのストーリーになる、
というのが現状を捕らえているような気がする。
戦争反対をテーマにして、
機械文明を信奉する帝国主義の国と、
自然を愛する少女の対決なんてつくっても、
それはプロパガンダにしかならない。
それはテーマのためにモチーフを選んでいるからで、
それはある主張をするときに、
言葉を選んでいることと、なんら変わりないからである。
フィクションの物語の作り方は、
少女と機械帝国の対決が面白おかしく作っているうちに、
なんとなくこれは戦争反対のテーマにたどり着きそうだ、
と、途中で気づくものである。
だとすると、機械と自然を対比的にえがいておくほうがいいかな、
なんて足していったり、
彼女が戦争というものについて、
どう考えているか、敵がどう考えているかをつくり、
対極的に創作すべきだな、
と判断したりするものだ。
テーマを設定してそれにぴったりなモチーフを探すと、
教科書的な、道徳的な、説教的な、
ものしかつくれない。
逆だ。
モチーフを面白くして、
それに浸っている間に、
テーマが自動的に形を持ち始めるのである。
逆に、テーマがいつまで経っても立ち上がらない物語は、
モチーフのガワだけのお祭り騒ぎでしかない。
ミルクをかき混ぜている間に、チーズが出来たのであって、
チーズを作る為にミルクを採取するのではないのだ。
論文や主張を書くときは逆で、
「テーマにぴったりのモチーフを見つける」
がスタートになるだろう。
表現の内容こそが重要だから、
もはやいい感じのモチーフを探す必要すらないかもしれない。
(フォトジェニックなモチーフを探すことは、
主張を注目させるための、戦略に過ぎない)
フィクションは逆の作り方をする。
モチーフへの愛ありきではないだろうか。
これをいじっているうちに、
「こういうテーマに到達する物語になるぞ」
と予感することが、
プロットの初期に起こるべきだ。
だから、テーマは「自動的に出てくる」のである。
それはおそらく自分の無意識からやってくるのだろう。
普段問題と思っていることや、関心ごとから出てくるのだと思う。
モテないやつやさびしいやつが、
そんな感じの話を書きがちなのは、
無意識から出てきているからである。
そういうやつは一回それを昇華したほうがいい。
リアルワールドでもフィクションワールドでも。
振られた人が名曲を書くのはよくある話だ。
ひょっとしたら名作が書けるかもしれないから、
やるだけやるといい。
それはたいち凡百の中に沈むだろうが、
一回やっておくと、次の覚悟が違うというものだ。
なにせ、一回やったら別のことをするのが創作だからね。
あれ?
自分の中に、テーマになるような、なにかがあるっけ。
そのうちそういうことにも気づくはずだ。
世の中に何か主張したいことってあったっけ。
分析してみせたい何かってあったっけ。
なくてもいい。
フィクションは主張ではないから、
あなた自身が何か世の中にいわなくても良いのだ。
これを書いていれば、そういうテーマで一気通貫できるぞ、
ということを発見すればよくて、
それは一気通貫することが重要だ。
そのテーマが無意識から出て来たら、
たぶん現代の何かとリンクしてはいるだろう。
テーマが素晴らしい、ということはフィクションの物語では滅多にない。
それよりも、ストーリーが面白いとか、
キャラクターが魅力的であるとか、
ガワがいいとか、
そっちのほうが重要だ。
ということで、
テーマについて、大迎に考えるべきではない。
そんなことしたって、
中学生の弁論大会か、政治おじさんのツイートみたいになってしまうだけだろう。
これをこうやっているうちに、
このような結論になる話になるな。
そのように発見できればよい。
逆に言うと、テーマは最後まで厳密には確定しない。
大体のことはできているようだが、
なにを言い出して、なにをどう決着つけるかは、
書いてみないと詳細は見えてこない。
一回書き終えて、
詳細にテーマが確定した時点で、
まだ出来立てのテーマを見ながら、
それにちゃんと着地するように、
技術で前振りや伏線を作って、
きちんと見れるものにリライトで整えていくものだと、
思っていたほうがいい。
フィクションの表現は、なにかを表現するために表現するのではない。
それそのものを表現していると、面白いからやっているだけだ。
言葉を選び、組み立てていく論文や主張とは、
逆の作り方であることを、分っていたほうがいいかもしれない。
なのにどちらも、
よくできたものは、
テーマにきちんと帰着するように出来ている。
まことに人間の作り出すものは、
面白いものだ。
人工知能にゃ無理なことだね。
とにかく素材をかき混ぜろ。
あなたが集めてあなたがかき混ぜるのだから、
なにかしらテーマが立ち上がるものだよ。
2018年11月12日
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