ストーリーってなんだ。
いつもこれを考えている。
なにかが起こり、時系列があれば、
ストーリーになるのではない。
これをうっかりストーリーと呼んでしまう人はいるが、
それは「あったことの羅列」であり、
ストーリーではない。
ではストーリーとはなんだろうか。
僕は、
「その時系列が意味を成すこと」がストーリーの要件ではないかと思っている。
意味のない時系列の出来事は、
それが因果関係があろうがなかろうが、
それはストーリーではない、と考える。
「ボヘミアンラプソディー」について、
色々なことを考えた。
フレディの人生にどういう意味があったのか、
クイーンにどういう意味があったのか、
ボヘミアンラプソディーは結局どういうことなのかがなければ、
僕はストーリー映画として認めない。
ボヘミアンラプソディーは、
映画を見る限り、
「実験精神にあふれた曲で、
最初はまったく酷評されたが、
フレディの死後チャート一位を獲得した」
という意味しかない。
これは事実でしかなく、意味としては弱い。
それはフレディのこういう性格の表現だったのだ、
という意味もなければ、
これは我々にとってこういう意味のある曲なのだ、
という意味も、
映画からは読み取れなかった。
クライマックスが絵的に音響的にパーフェクトな、
ライブエイドのシーンであることは素晴らしいが、
「それがどういう意味になるのか」
が映画のストーリーというものである。
映画から読み取る限りは、
「オレはまだ死にたくない」というメッセージと、
「ママ愛してる」のふたつだけだ。
ここがミュージカルであれば、
この映画のテーマである歌詞をうたいこんだことだろう。
この映画がミュージカルになりえていないのは、
実在のライブをクライマックスにしてしまったことが原因だ。
私たちは、ストーリーから、
意味を読み取りたい生き物である。
ただの時系列で反応する獣ではないのだ。
「それが何の意味があるのか」を真摯に考え、
それを表現まで昇華しきったエンターテイメントを、
ストーリー芸術と呼ぶのではないかと、
僕は考えている。
そのための使いやすい道具が、
主人公の渇きや欠点(内的問題)であり、
主人公を動かす事件(外的問題)であり、
その昇華であるところの、クライマックスである、
と考えられる。
「ボヘミアンラプソディー」では、
主人公フレディに、
パキスタン人であること、
ゲイであること、
孤独であること、
などの内的問題にスポットがあたり、
我々はそれに感情移入することになる。
外的問題は、それがバンドとして成功していく物語において、
いかんなく発揮される。
(独立問題や再結成のプロットはとても良かった。
悪役がちゃんといたのも機能していた。
彼との決別がちゃんとドラマとなっていたのは見事だ)
にもかかわらず、
それを乗り越えた先は、
内的問題も外的問題も、昇華しえたものになれなかった。
つまり映画としての理想は、
「フレディの孤独は、バンドの成功によって癒された」
という結論にならなければないはずで、
残念ながらそうなっていないのが、
映画の意味として弱い。
映画はドキュメンタリーではないから、
そこに映画的な意味が必要で、
それは大抵タイトルに関係している。
だから「ボヘミアンラプソディーが世界にどういう意味があったのか」が、
映画として確定しなければならないと、
僕は思う。
だから、ボヘミアンラプソディーという映画は、
ストーリーとしては落第である。
ミュージックショウとしてはすごく良いので、
音響のいい所で、見たほうがよい。
ただ、時間経過とともに、
人々の行動や出来事を記録しても、
それは歴史や報告であるにすぎず、
ストーリーではないことに注意されたい。
あなたの日記はストーリーではない。
そのことが意味をなすとき、
たとえ嘘でも本当でも関係なく、
それはストーリーになるだろう。
僕はドキュメンタリーには興味がない。
それはほんとうにあったことで、
ああそうか、としか思わない。
ストーリーこそが、
人の心を動かす何かだと信じている。
それは、
ストーリーには意味があるからだと思う。
僕は、オオカミの遠吠えにすら、
「孤独同士の通信」や「孤高の誇りの宣言」
などの意味を読み取るから、
それだけで涙したりする。
それはストーリーになっているからだ。
長さや規模はストーリーには関係ない。
その切り取られた時系列(ガワ)と、
その意味(中身)のペアの妙が、
ストーリーだと思う。
2018年11月14日
この記事へのコメント
コメントを書く