前記事の続き。
僕は短編を数多く書くことを奨励する。
1分の短編を3本書く方が、
完結しない大長編より価値があると考える。
それは、落ちで落とす経験をどれだけ積んでるか、
ということに関係する。
落ちとはなんだろう。
うまく言えないが、
「この話してきたこと、実はこういうことなんすよ」
とまとめることであると思う。
笑いで済ませれば落語や漫才やコメディ、
ブラックに済ませればホラーやミステリー、
希望に済ませれば人間ドラマ、
科学の可能性で済ませればSF、
不可解で済ませれば不条理、
結婚で済ませればラブストーリー、
というふうに色がつくだけで、
全てのよくできたストーリーはなんらかの結論を持つ。
逆にジャンルとは、
結論のジャンルに他ならないと僕は考える。
前記事からの流れでいうと、
狂気になることは誰でも出来る。
不思議な世界を作ったり、
特異なキャラを出したり、
とんでもない事件を起こすことは、
妄想からでも薬物からでも、
偶然からでも可能だ。
しかしそれを、
この世界にはこういう意味があったんだ、
このキャラはこのように人生を全うしたんだ、
この事件の解決は、このような意味や教訓を社会に残した、
などのように、
理性でまとめ上げることが、
落ちであると考える。
逆に、とってつけた落ちなんて意味がなくて、
この落ちに行くために最適化されたストーリーこそが、
よくできたストーリーというものだ。
さあ。
狂気や思いつきなんて、
このことに比べれば10%ぐらいのことだ。
残り90%は、
理性で決着をつけなければならないのだ。
僕がこのように脚本理論を理屈で書いているのは、
ストーリーとは理性や理屈で制御するべきものだからだ。
正確にいうと、狂気の暴れを見世物にしながら、
理性でコントロールされた部分は感づかれてはならないのだ。
プロレスラーは場外乱闘を獣のようにするが、
決して観客を傷つけることはないのである。
つまり、
僕らは、思いつきや狂気を、
理性で落ちに導かなければならない。
その見事さを競うのが、
ストーリーテリングという芸術であると、
理解した方が良い。
序盤は誰でも書ける。
最後までかけるやつは稀だ。
なぜなら、落ちをつけなければならないからだ。
短編を数多く書きなさい。
落ちを何度も何度もパターンを変えて創作しなさい。
落ちをつけられるかどうか、
翻って逆算して構成できるかどうか、
翻って逆算して、面白げな狂気を解放できるかどうか、
それがストーリーテラーの能力だ、
ということがわかってくるだろう。
2018年11月15日
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