2018年11月15日

つまり落ちとは、理性に戻ることだ

前記事の続き。

僕は短編を数多く書くことを奨励する。
1分の短編を3本書く方が、
完結しない大長編より価値があると考える。

それは、落ちで落とす経験をどれだけ積んでるか、
ということに関係する。


落ちとはなんだろう。
うまく言えないが、
「この話してきたこと、実はこういうことなんすよ」
とまとめることであると思う。

笑いで済ませれば落語や漫才やコメディ、
ブラックに済ませればホラーやミステリー、
希望に済ませれば人間ドラマ、
科学の可能性で済ませればSF、
不可解で済ませれば不条理、
結婚で済ませればラブストーリー、
というふうに色がつくだけで、
全てのよくできたストーリーはなんらかの結論を持つ。

逆にジャンルとは、
結論のジャンルに他ならないと僕は考える。


前記事からの流れでいうと、
狂気になることは誰でも出来る。
不思議な世界を作ったり、
特異なキャラを出したり、
とんでもない事件を起こすことは、
妄想からでも薬物からでも、
偶然からでも可能だ。

しかしそれを、
この世界にはこういう意味があったんだ、
このキャラはこのように人生を全うしたんだ、
この事件の解決は、このような意味や教訓を社会に残した、
などのように、
理性でまとめ上げることが、
落ちであると考える。


逆に、とってつけた落ちなんて意味がなくて、
この落ちに行くために最適化されたストーリーこそが、
よくできたストーリーというものだ。

さあ。

狂気や思いつきなんて、
このことに比べれば10%ぐらいのことだ。

残り90%は、
理性で決着をつけなければならないのだ。



僕がこのように脚本理論を理屈で書いているのは、
ストーリーとは理性や理屈で制御するべきものだからだ。

正確にいうと、狂気の暴れを見世物にしながら、
理性でコントロールされた部分は感づかれてはならないのだ。
プロレスラーは場外乱闘を獣のようにするが、
決して観客を傷つけることはないのである。


つまり、
僕らは、思いつきや狂気を、
理性で落ちに導かなければならない。

その見事さを競うのが、
ストーリーテリングという芸術であると、
理解した方が良い。


序盤は誰でも書ける。
最後までかけるやつは稀だ。

なぜなら、落ちをつけなければならないからだ。


短編を数多く書きなさい。
落ちを何度も何度もパターンを変えて創作しなさい。

落ちをつけられるかどうか、
翻って逆算して構成できるかどうか、
翻って逆算して、面白げな狂気を解放できるかどうか、
それがストーリーテラーの能力だ、
ということがわかってくるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 12:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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