ストーリーとは、形式的には、
事件の発生から解決までをいう。
発生が期待だとすれば、
解決は満足に相当する。
「面白い」とは、
期待にも使う言葉で、
満足にも使う言葉だ。
「途中までは面白かったが、
最後は微妙」というのは、
期待したのに最後まで満足できなかった、
という意味だ。
「最初はどうかと思ったけど、
途中から良くなってきて、
満足だった」というのは、
期待値は低かったが満足したという意味だ。
なぜストーリーを書くのが難しいかというと、
「期待させることは誰でも出来るが、
満足させることが難しい」からである。
期待値を超えることが難しい。
ハードルを上げれば上げるほど、
それを超えることは難しくなる。
(ラストの満足以下に期待を下げる戦略もあるが、
そうなると誰も期待してくれず、
最後まで見てくれない)
満足するには何が必要だろう?
その解決が、問題に対してきちんと解決になっていることと、
その解決が、全体としてどういう意味を持っているか、
という二つだと思う。
解決が投げやりだったり、ご都合であったり、
無理があったり、リアリティがなかったりすると、
満足できない。
絵的なカタルシスでごまかすこともあるが、
それが解決だったのか?
と言われると誤魔化しきれない。
(たとえば「ボヘミアンラプソディー」のラスト、
ライブエイドは絵的に、音楽的に、
映画史に残りうるカタルシスをもたらすが、
「問題の解決」というストーリー上の役割を果たしていない。
問題は設定されていた。
「出っ歯のパキと馬鹿にされた小さな男」だ。
それがスターになった瞬間かどうかは、
他の人も出演するライブエイドでは、
ポジショニングが微妙だ。
ボヘミアンラプソディーが死後一位になったことが、
では解決だろうか?
そうでもない気がする。
なぜならボヘミアンラプソディーという曲は、
奇妙ではあるが名曲ではないからだ)
つまり解決に必要なものは、
「これまで前振ってきたことが、
雪崩を打って一気に解決すること」だ。
何一つ解決されていないことが残らず、
全て解決するからこそ、
カタルシスがあるのだ。
全てはクライマックスからラストで、
綺麗さっぱり洗い流されて、
ようやくカタルシスなのだ。
(続編を作ることが難しいのは、
こういう理由である。
何一つ残されていないからこそ、
完結したからね)
逆にいうと、
ストーリーとは、
いかに洗い流して一気に解決するかを、
どう逆算して前振るのか、
という組み立て方を競うのである。
前から順番に書いて、
期待させてそのハードルを越えていく、
なんて書き方ではダメなのだ。
ここに前振りを作り、あとあとこう解決する、
ということをわかった上での、
火薬の敷設のようなものであり、
クライマックスでそれが何連鎖する爆発なのか、
という爆破計画のようなものなのだ。
それが見事であればあるほど、
満足は高く、
さらにいうと、
それが期待に答えていれば、
満足が高くなる。
ストーリーは、高尚なるあなたの思想の披露の場ではない。
何かを期待させて、
それを見事に回収する、
という枠組みの見事さを競うものである。
そしてその見事さが、
「こういう意味だったんだ」と、
一点に凝縮されて記憶される。
その一言をテーマと呼ぶにすぎない。
2018年11月17日
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