2018年11月17日

事件の解決は「満足」でなければならない

ストーリーとは、形式的には、
事件の発生から解決までをいう。

発生が期待だとすれば、
解決は満足に相当する。

「面白い」とは、
期待にも使う言葉で、
満足にも使う言葉だ。


「途中までは面白かったが、
最後は微妙」というのは、
期待したのに最後まで満足できなかった、
という意味だ。
「最初はどうかと思ったけど、
途中から良くなってきて、
満足だった」というのは、
期待値は低かったが満足したという意味だ。

なぜストーリーを書くのが難しいかというと、
「期待させることは誰でも出来るが、
満足させることが難しい」からである。

期待値を超えることが難しい。
ハードルを上げれば上げるほど、
それを超えることは難しくなる。

(ラストの満足以下に期待を下げる戦略もあるが、
そうなると誰も期待してくれず、
最後まで見てくれない)


満足するには何が必要だろう?

その解決が、問題に対してきちんと解決になっていることと、
その解決が、全体としてどういう意味を持っているか、
という二つだと思う。

解決が投げやりだったり、ご都合であったり、
無理があったり、リアリティがなかったりすると、
満足できない。

絵的なカタルシスでごまかすこともあるが、
それが解決だったのか?
と言われると誤魔化しきれない。

(たとえば「ボヘミアンラプソディー」のラスト、
ライブエイドは絵的に、音楽的に、
映画史に残りうるカタルシスをもたらすが、
「問題の解決」というストーリー上の役割を果たしていない。
問題は設定されていた。
「出っ歯のパキと馬鹿にされた小さな男」だ。
それがスターになった瞬間かどうかは、
他の人も出演するライブエイドでは、
ポジショニングが微妙だ。
ボヘミアンラプソディーが死後一位になったことが、
では解決だろうか?
そうでもない気がする。
なぜならボヘミアンラプソディーという曲は、
奇妙ではあるが名曲ではないからだ)


つまり解決に必要なものは、
「これまで前振ってきたことが、
雪崩を打って一気に解決すること」だ。
何一つ解決されていないことが残らず、
全て解決するからこそ、
カタルシスがあるのだ。
全てはクライマックスからラストで、
綺麗さっぱり洗い流されて、
ようやくカタルシスなのだ。

(続編を作ることが難しいのは、
こういう理由である。
何一つ残されていないからこそ、
完結したからね)


逆にいうと、
ストーリーとは、
いかに洗い流して一気に解決するかを、
どう逆算して前振るのか、
という組み立て方を競うのである。

前から順番に書いて、
期待させてそのハードルを越えていく、
なんて書き方ではダメなのだ。

ここに前振りを作り、あとあとこう解決する、
ということをわかった上での、
火薬の敷設のようなものであり、
クライマックスでそれが何連鎖する爆発なのか、
という爆破計画のようなものなのだ。

それが見事であればあるほど、
満足は高く、
さらにいうと、
それが期待に答えていれば、
満足が高くなる。


ストーリーは、高尚なるあなたの思想の披露の場ではない。
何かを期待させて、
それを見事に回収する、
という枠組みの見事さを競うものである。

そしてその見事さが、
「こういう意味だったんだ」と、
一点に凝縮されて記憶される。
その一言をテーマと呼ぶにすぎない。
posted by おおおかとしひこ at 12:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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