2018年11月19日

取材とは、落ちに引っ掛けられる何かを探すこと

取材を、「知らない世界を知ること」だと思ってるのは、
取材経験の少ない人かもしれないね。


勿論、取材の第一の目的はネタ探しだ。

知らない新鮮な何かをネタにするために、
日々アンテナを張り、
何かに注目していくのだ。

知らない世界を知ることは、
それだけで興奮を呼ぶ。

人と違う体験をしてきた人の体験記は、
いつでも価値がある。
(たとえば宇宙飛行士)


そして、取材の第二の目的は、
「それがどういう世界で、
どういう成り立ちで動いていて、
どういうプレイヤーがいるのかを把握する」
ことにある。

たとえば映画業界を描くとき、
監督やプロデューサーやカメラマンや役者や、
スタイリストやヘアメイクがプレイヤーになるのは想像出来るだろうが、
意外と事務所の社長(または担当)がプレイヤーになるのは、
あまり知られていない。
キャスティング権を握っていたり、
役柄に文句を言うのは、
役者本人ではなく事務所であることが多い。
そうやってパブリックイメージをコントロールしていくのである。

「ウチのアレはそんなことしないです」と言われて、
我々制作サイドはどれだけ困るかは、
その体験者しか語れない。


で。

取材はここまで調べて、
ようやく最低限でしかない。

面白げなネタ、
それがどういう機構、システム、プレイヤーで動いているか。
金の流れ、人の流れ、情報の流れ。
正しいとされること、間違っていること。
その世界の本質的なこと。

ここまで取材したって、
ドキュメンタリーには使えても、
フィクションのストーリーには使えないかも知れないのだ。


フィクションの最も大事なものは、
落ちである。

その落ち方で全てが決まる。
そのストーリーがどういう意味があるのかが確定する。

そしてその落ちには前振りが必要で、
冒頭に前振りをする場合もあれば(初歩的)、
ストーリーの要素全てが、
落ちのために用意されている場合もある(達人)。


で、せっかくその特別な世界の話なのだから、
その世界のことを落ちにするべきだ。

たとえば将棋界のことを扱っていながら、
将棋の何かに引っ掛けて落とせないなら、
将棋を題材に扱う意味がない。
(「聖の青春」が落ちが微妙なのはそういう理由だ)

フレディマーキュリーの生涯を扱いながら、
彼の人生の何かが落ちにこない限り、
それはフィクションのストーリーとして意味がない。
(そして「ボヘミアンラプソディー」は、
その意味を見失っているという点において、
フィクションとして最低の出来だ。
圧倒的なガワの魅力は今年度最高クラスだが)



取材とは、
落ちを探すことなのだ。

落ちはこっちで用意するけれど、
その落ちがうまく機能するかどうかは、
取材してみないと分からないのだ。

取材は、
ネタを拾い、
その世界を大体理解するまでやるのではない。

落ちを見つけるまでやるのである。



やり方はいろいろある。
ネット(すぐ調べられるが体系的ではない。本音が転がっていることもある)、
書籍(体系的記述は頼りになる。しかし総覧的であるかは資料による)、
直接取材(最もリアルだが、その人の主観を除去できない)、
などがあるだろう。

どのやり方をとっても良いし、
総合的にすることになるだろう。

生き生きと活写し、
かつその世界がリアルに存在するように、
取材が威力を発揮することは大きい。


だけど、
ガワのためだけにその取材をするのではない。
その世界の言葉で落ちをつけるために、
落ちを探しにいくことが、
取材の本当の目的であると思う。


僕は今「伊勢型紙」について調べている。
この中に僕の落としたい落ちを見つけるまで、
調べ物は続く。

そして、もし見つからなかったら、
伊勢型紙についての全てを捨てて、
違う世界を題材にするかもしれない。


単に目新しいとか、
よくその世界が描けているとか、
そんなガワのことなんか誰でもできる。

ストーリーはその奥の、落ちを扱う。
posted by おおおかとしひこ at 13:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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