取材を、「知らない世界を知ること」だと思ってるのは、
取材経験の少ない人かもしれないね。
勿論、取材の第一の目的はネタ探しだ。
知らない新鮮な何かをネタにするために、
日々アンテナを張り、
何かに注目していくのだ。
知らない世界を知ることは、
それだけで興奮を呼ぶ。
人と違う体験をしてきた人の体験記は、
いつでも価値がある。
(たとえば宇宙飛行士)
そして、取材の第二の目的は、
「それがどういう世界で、
どういう成り立ちで動いていて、
どういうプレイヤーがいるのかを把握する」
ことにある。
たとえば映画業界を描くとき、
監督やプロデューサーやカメラマンや役者や、
スタイリストやヘアメイクがプレイヤーになるのは想像出来るだろうが、
意外と事務所の社長(または担当)がプレイヤーになるのは、
あまり知られていない。
キャスティング権を握っていたり、
役柄に文句を言うのは、
役者本人ではなく事務所であることが多い。
そうやってパブリックイメージをコントロールしていくのである。
「ウチのアレはそんなことしないです」と言われて、
我々制作サイドはどれだけ困るかは、
その体験者しか語れない。
で。
取材はここまで調べて、
ようやく最低限でしかない。
面白げなネタ、
それがどういう機構、システム、プレイヤーで動いているか。
金の流れ、人の流れ、情報の流れ。
正しいとされること、間違っていること。
その世界の本質的なこと。
ここまで取材したって、
ドキュメンタリーには使えても、
フィクションのストーリーには使えないかも知れないのだ。
フィクションの最も大事なものは、
落ちである。
その落ち方で全てが決まる。
そのストーリーがどういう意味があるのかが確定する。
そしてその落ちには前振りが必要で、
冒頭に前振りをする場合もあれば(初歩的)、
ストーリーの要素全てが、
落ちのために用意されている場合もある(達人)。
で、せっかくその特別な世界の話なのだから、
その世界のことを落ちにするべきだ。
たとえば将棋界のことを扱っていながら、
将棋の何かに引っ掛けて落とせないなら、
将棋を題材に扱う意味がない。
(「聖の青春」が落ちが微妙なのはそういう理由だ)
フレディマーキュリーの生涯を扱いながら、
彼の人生の何かが落ちにこない限り、
それはフィクションのストーリーとして意味がない。
(そして「ボヘミアンラプソディー」は、
その意味を見失っているという点において、
フィクションとして最低の出来だ。
圧倒的なガワの魅力は今年度最高クラスだが)
取材とは、
落ちを探すことなのだ。
落ちはこっちで用意するけれど、
その落ちがうまく機能するかどうかは、
取材してみないと分からないのだ。
取材は、
ネタを拾い、
その世界を大体理解するまでやるのではない。
落ちを見つけるまでやるのである。
やり方はいろいろある。
ネット(すぐ調べられるが体系的ではない。本音が転がっていることもある)、
書籍(体系的記述は頼りになる。しかし総覧的であるかは資料による)、
直接取材(最もリアルだが、その人の主観を除去できない)、
などがあるだろう。
どのやり方をとっても良いし、
総合的にすることになるだろう。
生き生きと活写し、
かつその世界がリアルに存在するように、
取材が威力を発揮することは大きい。
だけど、
ガワのためだけにその取材をするのではない。
その世界の言葉で落ちをつけるために、
落ちを探しにいくことが、
取材の本当の目的であると思う。
僕は今「伊勢型紙」について調べている。
この中に僕の落としたい落ちを見つけるまで、
調べ物は続く。
そして、もし見つからなかったら、
伊勢型紙についての全てを捨てて、
違う世界を題材にするかもしれない。
単に目新しいとか、
よくその世界が描けているとか、
そんなガワのことなんか誰でもできる。
ストーリーはその奥の、落ちを扱う。
2018年11月19日
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