2018年11月22日

エッジの立っていないものは、表現ではない

たとえばエッジが立っていないセリフ。

「さむいねー」なんて寒い風景の中で言ってるのは、
ただの説明であり言い訳であり、
ただの進行であり、
それゆえ平凡である。


寒い風景の中で、
「いや、寒くない。寒くないよ。
ほら、夏みたいだ」
とブルブル震える、
というのは平凡ではない。

つまりそれは表現になる。

「眠い」と眠い時に言うのは表現ではない。
ただの報告だ。

たとえば、
「寝たら死ぬ。寝たら死ぬ」と言いながら気を失いそうになっているとか、
「人類が1/3人生を失うのはなぜか?」と演説することによって眠気を覚ますのは、
平凡でない表現だろう。


「表現」と言う言葉には二つの意味がある。

1 あることを報告すること。representation
2 非凡な芸術。original art

「私は表現者だ」というとき、
1ではなく2の意味だろう。
1だったら、「寒い」「お腹減った」「セックスしたい」
と、自分の思うことを全部報告する人の事である。

物語に1の部分は不要だ。
2だけで埋め尽くせ。


平凡だが平凡なことをやらなければいけないなら、
無言でその絵で進行を示せ。

たとえば家から出て電車に乗り会社に行くのは、
とても平凡なことだが、
「その平凡な日常に異常な出来事が」というストーリーの場合、
平凡描写は避けられないので、
平凡なことを描写する必要はある。

しかしそれが2に取られると意味がないので、
そんなものはさっさと進行して仕舞えば良い。


平凡なことを平凡に描くのは、
才能のないやつだけだ。

才能と、非凡と、エッジが立っていると、表現は、
同じ意味の言葉である。
posted by おおおかとしひこ at 12:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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