因果関係があるのがストーリー。ないのが日記。
「4月が終わった。5月になった。」は日記。
「4月に終わったがゆえに、5月になった。」がストーリー。
4月が5月の原因に、
5月が4月の結果にならなくてはストーリーではない。
そして勿論、4月ゆえに5月にはならない。
ストーリーにしてみるとしよう。
たとえば、
「新入社員になり、環境も変わってあたふたしている間に、
4月が終わってしまった。
5月になると一旦落ち着き、
4月の忙しさが実感できた」
というようなことがあれば、
4月ゆえに5月、と因果関係を結ぶことができるだろう。
カレンダーが進んだから4月は5月になるのは、
ただの日記だ。
主体は時間(天体の運行)か、人間か、
といっても過言ではない。
そして人間は、行動することで時を刻む。
行動したからどうなったか、
という一連(何段階行動しても良い)が、
ストーリーになる。
上の例では主体的行動ではないが、
周りに合わせて行動することも行動であるから、
日記の枠を出ていることになる。
で、
もうひとつ、ストーリーには落ちが必要だ。
「だからなんなん?」だ。
落ちのないストーリーは、
「ストーリーになりかけたもの」に過ぎない。
(だから完結までいかないものは、
ストーリーではなく、断片である)
上の例でいうと、
「心を亡くすと書いて忙しいである。
忙しさの中にも心を取り戻す時間を作ろう」
なんて締めくくれば、
4月と5月の話には意味が出てくるわけだ。
もちろん、
これはあくまで例なので、
たいして面白くない意味なのは勘弁していただきたい。
もしあなたの書いているストーリーで、
このようにただ単純に時が過ぎるシーンがあるかもしれない。
そこはストーリーではないから、
バッサリ切って、
「次の日」とタイトルを入れて、
次のストーリー部分へ直結する
(前のシーンの尻が次のシーンの原因になっている)
ことも可能であることを知ろう。
勿論情緒的にその時が過ぎ行くシーンは良ければ、
あとあと復活させればよいだけのことだ。
で。
ストーリーだけのシーンに凝縮したものを、
脚本では最も尊ばれるというだけのこと。
何かは何かの原因または結果になっている。
そして最後の結果は、これまでの全てが原因になり、総括される。
その鎖のセットを、一言でストーリーという。
2018年11月23日
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