内面のストーリーは、
三人称である映画では、形にならない。
だからそれを外面的なもので代用(象徴)する。
抽象は形にならないから、具体にする。
わかっていてもなかなかできないことだ。
そういうときは、
「そのことを表現するる、たとえば具体はなんだ?」
と考えるとよい。
前の前の記事(「迷路の件、雑談」)の、
ACのCMを適当に作ってみた作例では、
「理解し合えない、二つの考え方」
という抽象を描こうとした。
しかし、「考え方」というのは絵で示せない。
(迷路は象徴であり、考えかたそのものではない)
だからその考え方の相違が出やすい、
「たとえばどういう場面なら」出るか、を考えるとよい。
で、共感を得る井戸端会議とか、
一緒にトイレにいくとか、
理解できないメカを捨てるとか、
そういう具体的場面を思いつくのである。
「この具体なら、この抽象をうまく表現できるぞ」
に至るまで、具体例を考えるのである。
さらにもっと適切で面白くて、わかるわーなんて場面になるならば、
それはなんでもよい。
(これはスプレッドである)
もしもっとも強い決定的な場面がひとつあればよいが、
思い付かなかったので、いくつかの場面の集合体とした。
しかしそれらは数を成すことで時間経過をつくり、
徐々に気持ちが悪くなっていくようには作られている。
(単なるスプレッドにはならないように、
クレシェンドにならべてあるわけだ)
「ふたつの考え方が相容れず、
他方を排除するストーリーを書こう」
と抽象で思うことは誰でもできる。
しかしその抽象から、
適切で面白い具体を思いつくのは、
なかなかに困難だ。
(多分脳の使っているところが違うと思う)
「たとえばこういうこと」でうまく示せる例を思い付くまで、
いろいろな場面を夢想するしかないだろうね。
ここで、どういうガワが面白いか、
というガワへの嗅覚がいるだろう。
ガワをいろいろ思いついたら、
それらを、それらの関係性でうまく時系列を作れるか、
ということはまた別の脳の部分を使うだろう。
(時系列にならべてどんどん悪化していこう、
と抽象の抽象を考えるわけだ)
これは編集能力に近いかもしれない。
編集というのは構成の事だから。
構成というのは、逆に、
具体の中にある抽象の何を時系列にするのか、
という判断力なのかもしれない。
こんなことをぐるぐる考えながら、
抽象と具体の間を行き来するわけだ。
たとえばブラジャー会社に就職した男にするとか、
ブラジャーを矯正させられるとか、
生理休暇や生理前の荒ぶりについていけないとか、
そういうガワのネタも思いついたが、
わざわざ入れてはいない。
作品として完成させるなら、それらを入れ込むかもしれない。
よし、男が苦労するけど理解される話を作ろう。
よし、不細工な女が実力で認められる話を作ろう。
よし、ワクワクする物語を作ろう。
最初はそういう風に、抽象的に考えるかもしれない。
じゃあ、たとえばどういうこと?
それをうまく具体に落とせれば、
その抽象が表現できるかもしれないね。
たとえば。
例えばなしが上手い人は、ストーリーテラーの才能があるよ。
2018年11月24日
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