2018年11月24日

たとえばそれはどういうことか

内面のストーリーは、
三人称である映画では、形にならない。
だからそれを外面的なもので代用(象徴)する。

抽象は形にならないから、具体にする。
わかっていてもなかなかできないことだ。
そういうときは、
「そのことを表現するる、たとえば具体はなんだ?」
と考えるとよい。


前の前の記事(「迷路の件、雑談」)の、
ACのCMを適当に作ってみた作例では、
「理解し合えない、二つの考え方」
という抽象を描こうとした。

しかし、「考え方」というのは絵で示せない。
(迷路は象徴であり、考えかたそのものではない)

だからその考え方の相違が出やすい、
「たとえばどういう場面なら」出るか、を考えるとよい。

で、共感を得る井戸端会議とか、
一緒にトイレにいくとか、
理解できないメカを捨てるとか、
そういう具体的場面を思いつくのである。

「この具体なら、この抽象をうまく表現できるぞ」
に至るまで、具体例を考えるのである。

さらにもっと適切で面白くて、わかるわーなんて場面になるならば、
それはなんでもよい。
(これはスプレッドである)
もしもっとも強い決定的な場面がひとつあればよいが、
思い付かなかったので、いくつかの場面の集合体とした。

しかしそれらは数を成すことで時間経過をつくり、
徐々に気持ちが悪くなっていくようには作られている。
(単なるスプレッドにはならないように、
クレシェンドにならべてあるわけだ)


「ふたつの考え方が相容れず、
他方を排除するストーリーを書こう」
と抽象で思うことは誰でもできる。
しかしその抽象から、
適切で面白い具体を思いつくのは、
なかなかに困難だ。
(多分脳の使っているところが違うと思う)
「たとえばこういうこと」でうまく示せる例を思い付くまで、
いろいろな場面を夢想するしかないだろうね。
ここで、どういうガワが面白いか、
というガワへの嗅覚がいるだろう。

ガワをいろいろ思いついたら、
それらを、それらの関係性でうまく時系列を作れるか、
ということはまた別の脳の部分を使うだろう。
(時系列にならべてどんどん悪化していこう、
と抽象の抽象を考えるわけだ)
これは編集能力に近いかもしれない。
編集というのは構成の事だから。
構成というのは、逆に、
具体の中にある抽象の何を時系列にするのか、
という判断力なのかもしれない。


こんなことをぐるぐる考えながら、
抽象と具体の間を行き来するわけだ。

たとえばブラジャー会社に就職した男にするとか、
ブラジャーを矯正させられるとか、
生理休暇や生理前の荒ぶりについていけないとか、
そういうガワのネタも思いついたが、
わざわざ入れてはいない。
作品として完成させるなら、それらを入れ込むかもしれない。


よし、男が苦労するけど理解される話を作ろう。
よし、不細工な女が実力で認められる話を作ろう。
よし、ワクワクする物語を作ろう。

最初はそういう風に、抽象的に考えるかもしれない。

じゃあ、たとえばどういうこと?
それをうまく具体に落とせれば、
その抽象が表現できるかもしれないね。

たとえば。

例えばなしが上手い人は、ストーリーテラーの才能があるよ。
posted by おおおかとしひこ at 18:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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