2018年11月28日

グローバルなんて言葉の綾だよね

世界は繋がっている。
世界はひとつだ。
違いを乗り越える格差を是正しよう。
だからグローバルになるんだ。

これは美文でしかない。
実態は、地元商店街を破壊して、
いまや去りつつあるイオンと同じ商法である。


グローバル、ということを標榜する輩は、
要するに新しい植民地を探しにきただけなのだ。

ビッグバジェットをかさに着て、
地元より安く、高品質のものを提供する。
最初はいい様な気がする。
グローバル万歳と消費者は思う。
しかし、次第に雲行きはあやしくなる。
地元で回っていたお金が、
グローバルに取られていくことに。
地元のお店がつぶれていく。
地元のお店は消費者でもあったことに、
誰も気づいていなかったのだ。

消費者が減っていって、
お金はぜんぶグローバルに飛んでいく。

あとに残るのは、シャッターだ。


最近ずっと考えているキーボードの世界でも、
同じことが起こっている。

日本のキーボードは、グローバルと違うローカライズが施されている。
変換キー、無変換キー、カナキーの最下段が多く、
右端が一列多く、エンターキーが大きい。
しかし今進行しつつある自作キーボードは、
グローバル基準なので、
パーツもファームも、日本ローカルものがなかなかない。

一方日本メーカーは、死につつある。
つまりそのうち、日本語が打てない(打ちにくい)
キーボードばかりになっていく。

そして日本語をデジタルで打つ事がナンセンス、
みたいな、シャッターの降りた商店街のような、
破壊された状況だけが残るかもしれない。


商売の目的は利潤追求だ。
これは資本主義の原則だが、
日本の資本主義は、日本という狭い国でローカライズされた。
日本の文化を維持し、創造するという、
限られた枠内での特化をした。
だから日本の製品には、文化的価値があるものが多い。

商売ではない、文化をつくるのだ、
という80年代に僕が育ったことも、
こう考えることの基盤になっている。

いま、そうじゃなくなりつつある。
売れればよし。
文化をつくらなくてよいし、
文化を維持しなくてよい。

映画も、漫画も、音楽も、テレビも、
ボリュームゾーンに一回きり売れればよい、
という事になっているように思われる。
文化の継続には興味がなくて、
シリーズ化する理由は売れるからだ、という事になっている。

それは、市場をどんどん狭くしていく。
もともと同質性が高かった日本人は、
セグメント化されて、切り取られて、
ゾーンが小さくなっていく。


グローバルは、ひとつになることではなかった。
力のあるやつが、
力のないやつから残らず収奪するための、
美文だった。
気付いたときには遅い。
シャッターが、広がっている。

その商店街は、できたとき、夢のアーケードだったはずなのに。


誰が悪いのか。
文化をただでゲットするような、
民度の低いやつが問題なのかもしれない。
原価厨とかね。

すべては手作りでやっているんだ。
高くて当たり前だ。
予算減らすやつは、志も減らしていることに気づけや。


さて、どうすればよいのかは分からない。
あなたの時間と労力だけは、
自分の作品に莫大に注ぐことだ。
そうしないと傑作は生まれない。
駄作しか生まれないこともある。
やってみないと分からない。
この世にひとつだけしかないものを作るのに、
決まったやり方も、必ず成功する方法もない。
泥にまみれて花を咲かせるしかないのは、
モノづくりの基本だ。


中曽根内閣のときは、内需拡大を標榜して、
関税障壁を高く設定した。
ネット時代、アマゾン時代に、それは不可能かもしれない。
でもやってみたら、全てを自国調達にすることになるから、
新しい渦が生れるかもしれないね。
posted by おおおかとしひこ at 16:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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