世界は繋がっている。
世界はひとつだ。
違いを乗り越える格差を是正しよう。
だからグローバルになるんだ。
これは美文でしかない。
実態は、地元商店街を破壊して、
いまや去りつつあるイオンと同じ商法である。
グローバル、ということを標榜する輩は、
要するに新しい植民地を探しにきただけなのだ。
ビッグバジェットをかさに着て、
地元より安く、高品質のものを提供する。
最初はいい様な気がする。
グローバル万歳と消費者は思う。
しかし、次第に雲行きはあやしくなる。
地元で回っていたお金が、
グローバルに取られていくことに。
地元のお店がつぶれていく。
地元のお店は消費者でもあったことに、
誰も気づいていなかったのだ。
消費者が減っていって、
お金はぜんぶグローバルに飛んでいく。
あとに残るのは、シャッターだ。
最近ずっと考えているキーボードの世界でも、
同じことが起こっている。
日本のキーボードは、グローバルと違うローカライズが施されている。
変換キー、無変換キー、カナキーの最下段が多く、
右端が一列多く、エンターキーが大きい。
しかし今進行しつつある自作キーボードは、
グローバル基準なので、
パーツもファームも、日本ローカルものがなかなかない。
一方日本メーカーは、死につつある。
つまりそのうち、日本語が打てない(打ちにくい)
キーボードばかりになっていく。
そして日本語をデジタルで打つ事がナンセンス、
みたいな、シャッターの降りた商店街のような、
破壊された状況だけが残るかもしれない。
商売の目的は利潤追求だ。
これは資本主義の原則だが、
日本の資本主義は、日本という狭い国でローカライズされた。
日本の文化を維持し、創造するという、
限られた枠内での特化をした。
だから日本の製品には、文化的価値があるものが多い。
商売ではない、文化をつくるのだ、
という80年代に僕が育ったことも、
こう考えることの基盤になっている。
いま、そうじゃなくなりつつある。
売れればよし。
文化をつくらなくてよいし、
文化を維持しなくてよい。
映画も、漫画も、音楽も、テレビも、
ボリュームゾーンに一回きり売れればよい、
という事になっているように思われる。
文化の継続には興味がなくて、
シリーズ化する理由は売れるからだ、という事になっている。
それは、市場をどんどん狭くしていく。
もともと同質性が高かった日本人は、
セグメント化されて、切り取られて、
ゾーンが小さくなっていく。
グローバルは、ひとつになることではなかった。
力のあるやつが、
力のないやつから残らず収奪するための、
美文だった。
気付いたときには遅い。
シャッターが、広がっている。
その商店街は、できたとき、夢のアーケードだったはずなのに。
誰が悪いのか。
文化をただでゲットするような、
民度の低いやつが問題なのかもしれない。
原価厨とかね。
すべては手作りでやっているんだ。
高くて当たり前だ。
予算減らすやつは、志も減らしていることに気づけや。
さて、どうすればよいのかは分からない。
あなたの時間と労力だけは、
自分の作品に莫大に注ぐことだ。
そうしないと傑作は生まれない。
駄作しか生まれないこともある。
やってみないと分からない。
この世にひとつだけしかないものを作るのに、
決まったやり方も、必ず成功する方法もない。
泥にまみれて花を咲かせるしかないのは、
モノづくりの基本だ。
中曽根内閣のときは、内需拡大を標榜して、
関税障壁を高く設定した。
ネット時代、アマゾン時代に、それは不可能かもしれない。
でもやってみたら、全てを自国調達にすることになるから、
新しい渦が生れるかもしれないね。
2018年11月28日
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