は何だろう。色々あると思う。
シンキングタイム。
一番違うのは、
僕は「目的があること」だと思う。
現実の会話で、目的があるとは限らない。
ただ愚痴を言ってるだけとか、
ただダラダラ喋って面白いとか、
ただ独り言をメモしているとか、
ただ昨日あったことを言ってるだけとか、
ほとんどはそんなもんだ。
これが、
口説こうとか、説得しようとか、
なにかを言わなくてはならないとか、
各人の希望を把握して調整するとか、
知識を得ようとか、
になると、
目的を持った会話になる。
そもそも、
「今は目的を持たないただの会話でしたが、
ここから目的のある会話をします」
という線引きの目的の会話すらあるだろう。
天気の話などをしたあとでの、
「ところで本題ですが」なんてのはその典型だ。
さて。(この「さて。」も僕がよく使う本題への導入だ)
物語に登場する人物は、
端役以外、全員目的がある。
動機(抽象的なもの)と、
目的(絵で結果が示せるもの)を持っている。
(例:漫画家になりたい/手塚賞入選。
生き延びること/ターミネーターを殺す)
そして、全ての行動は、
目的を実現するための行動だ。
行動は身体的アクション(移動、殴る、ゼスチャー)か、
または会話を伴う。
会話はつまり「目的を遂行するためのアクション」なのだ。
だから物語の会話は、
目的を持ってなされたものである。
(もちろん、ほぐすために何でもない会話をすることもある。
しかしそれすら、「ほぐす」という目的があるわけだ)
脚本において、
無駄な箇所は全て削ぎ落とすべきだ。
無駄な箇所はつまらないからである。
つまり、
目的のない会話はすべて削除対象だ。
つまらないの反対は、
「目的を持った明確な行動」であり、
つまらないとは、
「目的のない、どこへ向かっているかわからないこと」だ。
(勿論意図的に「目的不明」を挿入することもある。
しかしそのあと「その目的を解き明かす」という目的になるだろう)
ということで、
物語の中での会話は、
ほぼすべて目的を持つ。
そうでない会話は、ノイズだ。
勿論これは極論で、
楽しむための会話が存在してはならない、
ということを意味しない。
言葉遊びはするべきだし、雰囲気会話は贅沢の質を上げる。
しかし、それはノイズとして全カットしたとしても、
物語の会話として機能する、
ということを覚えておくと良い。
極端に言えば、サイレント映画だってできるわけだから。
現実の会話で、
上司に「君は勤続何年になる?」と言われたら、
普通の会話かもしれない。
しかし物語でそう言われたら、
次に出てくるのはリストラ話か転勤か異動だろうね。
勿論、現実でもそうかもしれないが、
確率的にいえば、世間話のほうが圧倒的だろう。
数字で言えば、
現実の会話では、ダラダラ:目的が、
9:1ぐらいかもしれない。
「初めて会った人を色々探る」ときだと、
2:8ぐらいになるかもだ。
「勝手知ったる仲間との会話」なら、
10:0だろうね。
しかし物語では、
1:9か0:10がスタンダードだ。
物語とは、
色々な現実から、
「目的を遂行する局面」だけを切り取ったもの、
という言い方もできるかもしれない。
2018年12月03日
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