韻文と散文の違いから論じてみよう。
物語のセリフは、ときに大袈裟になることがある。
作り物的な、絶対リアルじゃ言わないような文になることが。
たとえば口上のようなもの
(「その脚力は一日数千里を走り……」とか、
「ブリキにタヌキに洗濯機」などの都都逸的なもの)、
だったり、
五七五的なものだったり、
「この月夜に遭う為に僕は生まれてきた」なんて、
歯の浮くようなものだったり、
中二的ななにかだったりする。
(ゾルタクスゼイアンとか、イルミナティとかのネーミングにもそれはある)
どうしてそう大袈裟になるのだろう。
現実にそんなこと言う事はないというのに。
それが物語がフィクションたるゆえんだと思う。
現実に言えないことだから、言って欲しい、あるいは聞いてみたい。
(役者の立場だったら、「言ってみたい」ということさえある。
昔みたツイートに、死ぬまでに一度は言いたい言葉は、
「〜と知っての愚行か!」というのがあった。
確かに、物語でしか見ない言葉だ)
一方、
韻文と散文という分類がある。
韻文のほうが文化としては速く成立し
(正確に言うと残ったものが韻文だっただけかもしれないが)、
散文は遅れて発達した。
世の中は散文だらけだからこそ、
韻文が特別なものに見えた、
と考えることが出来る。
音節の数を守ったり、韻を踏んだり、
そのような形式的なものにしたほうが、
特別なものに見えたのだと考えられる。
当然、節回しのある言葉は歌になっただろう。
(前にも上げたのかもしれないが、
テレビで関西人が、
「なんぼ戦闘機買うんや。
イーグル、ファントム、トムキャット」
と、見事に歌のようになっていて、
関西弁とフランス語はそのままで歌になるなあと思ったことがある)
そして、
「韻文なんか現実にはいわないよね」
というリアリスト派が、散文を発達させたのだと思う。
当然、散文だけでは、
物足りなくなってくる。
韻文の持つ気持ちよさや、
世界が整理されている感じがないと、人は欲求不満になるかもしれない。
それは、現実だけだと疲れてしまうからかもだ。
現代は、そのあたりにいると思う。
ミュージカルが苦手な人がいる。
タモリとかは「いきなり歌う人はいない」なんてよく言う。
これは、韻文を散文と混同しているからだ。
勿論現実に575で物をいう人はいないし、
脚韻を踏みながらしゃべる人はいない。
だからこそ、韻文が威力を増す、
ということを理解しないだけだ。
ミュージカルは、言葉をすべて韻文にしただけなのだ。
逆に、
すべてのセリフを575にした韻文形式の、
俳句甲子園やラップを題材にした映画なんて、
面白いのではないだろうか。
とくにサイレント映画では、
字幕だったこともあって、
韻文的なセリフがあったこともあった。
対句や、雅語が使われることもあった。
音声でセリフを言うようになって、
リアリズムが韻文を駆逐したのかもしれない。
しかしファンタジーや時代劇では、
韻文が効果的だ。
「つくりこんだ、架空の世界」に、
韻文は合う。
それは、言葉をも作りこんでいることになる。
ひょっとしたら、散文のセリフばかり書いている人は、
つくりこんだ物語を書いてないのかもしれないね。
(たとえば、「ここ、アドリブ」なんてバラエティの台本は、
もう形式やつくりこみを全否定しているわけだ。
AVに台本が必要か、という議論も出来るもしれない)
現実と物語のセリフの違いはなにか?
韻文を許容するかしないか、の違いかもしれない。
そういえば、
いまだに天皇の園遊会では575で喋らないといけない、
なんて聞いたこともあるけどほんとうかな。
それはそれで韻文が生きている世界なのかもしれないが。
2018年12月03日
この記事へのコメント
コメントを書く