2018年12月08日

「事なきを得た」は物語の敵だ

前記事の続き。

つまり面白い物語は、
次々に台無しになったり、
二度と回復できない、
取り返しのつかない事態になりまくる。

この真逆を考えよう。
「事なきを得た」だ。


我々には「日常の恒常性」という感覚がある。
そんな簡単に日本は壊れないだろうという感覚や、
失敗しても謝れば済むとか、
明日は今日と対して変わらないだろうという感覚だ。

これがないと明日が不安で眠れなくなるだろう。
受験の前の日や告白の前の日が不安になるのは、
明日が今日と同じように行くと限らないからである。

つまり、人は明日の不安に極度に弱い。
だから、明日もだいたい今日と似たようなものだ、
と考えるように出来ているのだと言えよう。


で。
これは日常の恒常性には役立つが、
物語とは真逆である。
物語とは非日常性のことだからだ。
逆にいうと、
私たちは日常の恒常性の確認のために、
非日常性の物語を楽しむのである。

311の避難所で、ジャンプが回し読みされたそうだ。
あまりにも非日常な津波と町の壊滅に対して、
人は日常の恒常性を確認したくて、
「非日常な物語を楽しむ日常」を体験したいのである。

これは阪神大震災のときに、
コンビニに並んだ逸話からも類推できる。
非日常にいると不安だから、
日常の行列で安心したいのである。

つまり、
日常の恒常性は、物語を見る動機である。
現実が恒常性を保つためには、
物語では恒常性を保つべきではない。

つまり、物語の中では、
取り返しのないことしか起こらない。
喧嘩しても明日元どおりにならないようにしなければならない。
だから、私たちはその行く末にハラハラできるのだ。

これは物語だからだと思っているから、
非日常性の高い、取り返しのつかないことに、
「安心してハラハラできる」のだ。

これがリアルに取り返しのつかないことをしてるとき、
「彼氏と喧嘩してるので別れるかもしれない」
状態の時に、
安心してハラハラできるわけがないのだ。


ところで。


作者も人間なので、
物語の中の非日常性の高い状況は、
ストレスが強い。

ということで、
ついつい「喧嘩したが、仲直りした」としたくなってしまう。
これがだめなのだ。

作者にストレスがかかればかかるほど、
観客は大喜びであることに、気づくべきである。

あなた一人が苦しいからといって、
せっかく取り返しのつかない状況、
つまりは物語的な状況になったのに、
「なんとか事なきを得た」と、
あなた自身の安心のためだけに、
ストーリーを曲げてはいけないのだ。

「喧嘩したが仲直りした」なんてのはくそだ。
「喧嘩したが仲直りした、
しかし火種はまだ残っている」が、物語だ。

冒険の旅に出たが、
辛くも事なきを得たではだめだ。
一人死んだりなど、取り返しがつかないようになるべきだ。

それが、時計が進むという事である。


事なきを得ただけでは、時計は進んでいない。
それはページが進んでも、ストーリーは進んでいない。
あなたは何ページも書いて、
ストーリーを1ページも書いていない。


posted by おおおかとしひこ at 19:17| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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