聖闘士星矢の件について、
脚本的なフィードバックを考える。
エキゾチズムはそれだけでなんかやった気になる、
ということ。
たとえば、
「男が女と偶然出会い、付き合うが、
元カレがいて話が一旦こじれ、別れる。
しかし彼女にもう一度会うチャンスがあり、
勇気を出して会いに行き、元サヤに」
というプロットは、
とても平凡だ。
これの何が面白いのか、
となる、古臭いプロットだ。
ところがこれが、
イギリスの片田舎ノッティングヒルという雰囲気のある街と、
雰囲気のある本屋のバイトが男で、
女が海の向こうのアメリカからやってきたハリウッド女優、
というガワ(ふりかけ)になると、
急に「素敵なストーリー」に見えてくる。
(「ノッティングヒルの恋人」)
私たちには、これらがエキゾチズムに映る。
イギリスの古い雰囲気のある街、そこの本屋が舞台、
海を越えたラブストーリー、
女優の華やかな世界。
そして何よりあの甘い主題歌。
エキゾチズムとは、
「普段の我々の日常にないもの」と定義するとしようか。
日本の街で日本の電車で日本の会社に通勤し、
日本のテレビやネットを見続ける、
平凡な日本の日常にはひとつもない、
ステキなものが出てくるだけで、
私たちは心が浮き立つ。
特別な世界の特別な出来事に見える。
エキゾチズムはイギリスの本屋である必要はない。
日本でも時代劇、
たとえば幕末にしてみたり、
忍びの恋にしてみたり、
平安貴族の話にしてみたり、
モンゴルから飛鳥時代あたりに日本にやってきた民族の話にしてみたり、
すると、
エキゾチズムが満載になってくる。
人は、
「今と違う世界に行きたい」と思う。
たとえば不良ものや、ボクシングものや、
医療ものや刑事ものなど、
「日常と少しかけ離れた世界」は、
エキゾチズムを放つわけだ。
逆に学生からしたら、
会社員の世界がエキゾチズムになるだろう。
深夜アニメは学園ものに一定の需要があるが、
それは学生が見ているからではなく、
会社員になってしまった人が、
自分の日常から遠いエキゾチズム(とノスタルジー)を
感じるために見ているといえる。
これは理屈ではなく、本能的な感性の問題だ。
で、
聖闘士星矢に話を戻すと、
我々にとってはなんでもない、
日常の、「ジャンプのバトルもの」が、
アメリカ人にとってエキゾチズムになるのである。
彼らの日常にはないものだからだ。
スシ芸者忍者AKB以外の、
ジャパニーズエキゾチズム堪能作品として、
聖闘士星矢はネトフリに存在価値があるのだ、
と僕はなんとなく思った。
逆に、
イギリス人にとって、
ノッティングヒルなんて新橋みたいなもんかも知れないよね。
え?こんなんが受けるの?みたいなね。
旅行の目的は、
エキゾチズムを楽しむことだ。
映画は旅に似ている、
とよく言われる。
それはストーリーの骨格がそもそもそうなのだが、
ガワにおいては、エキゾチズムが必要であることも意味する。
「日常系」と呼ばれるジャンルは、
エキゾチズムのカウンターカルチャーでしかないことを理解しよう。
エキゾチズムすぎるとまた我々は疲弊するわけだ。
しかしそれは大福の中の塩だ。
ほかのエキゾチズム作品を際立たせるためにある。
映画は、
見たことのない中身と、
見たことのないガワでやるべきだ。
見たことのある中身と、
見たことのないガワで釣る作品もある。
それは、見たことのない中身を作る実力がないから、
ガワでごまかしているに過ぎない。
そして新しいガワを作れるなら歓迎だが、
それをすでに出来上がったものを右から左に持ってくるだけで、
エキゾチズムのガワを被せているのが、
もっとも実力のない、
恥ずべき行為であると思う。
新作聖闘士星矢は、
残念ながらそのジャンルのようだ。
我々にとっては噴飯もののビジュアルや様式美でも、
そうでない、ネトフリを利用する世界の人々にとっては、
エキゾチズムとして売ることができるわけだ。
つまりこれは、商社のやり方ですな。
クリエーターのやり方ではない。
だから僕は腹が立っているのだろう。
エキゾチズムは、企画書で一番映える、
ハッタリに使える。
ホンを読めない、エキゾチズムだけで「採用!」
って言うバカが、最近増えている。
絵柄だけで中身のない、
たとえば「エアギア」とかに失望したことはないのかね?
ちなみにここは中身であるところの、
脚本を論じるところだ。
詰まらない中身でしかないなら、
ガワをエキゾチズムに飛ばすのは、
テクニックとして知っておこう。
それはとても安易なテクニックであり、
自分の首を絞める麻薬であることも理解しておくべきだ。
つまり、聖闘士星矢を作っている奴は、
その麻薬に犯された廃人ということさ。
2018年12月12日
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