2018年12月23日

起承転結理論の欠陥

起承転結理論はもともと物語の理論ではない。
漢詩の理論を、物語の理論に転用したものだ。

僕はそれで物語が書けるようになるとは思っていない。
起承転結理論は、書かない人の理論(学者の分析用)であって、
書くものにとって有用な理論ではないと考えている。


何が一番問題かでいうと、
「承」の理論的弱さである。

起 起こり。わかる。
承 ?
転 ツイスト。ひねり。意外な展開。わかる。
結 ネタばらして落ち。わかる。

承の部分だけ、何をかけば承になるのか、
この理論では不明なのである。

そもそも、ある時間的区間を取り上げたとき、
始まりと終わりが自動的に存在するから、
起と結は自動的に存在する。

で、その間の展開に、
順目と逆目があるよ、
と承転を定義しているに過ぎないと僕は思う。

これを物語理論に適用したとき、
起がファーストシーン(からカタリストまで)、
結がラストシーンで、
転がクライマックスやどんでん返し、
なんてことになるので、
それ以外の100分くらいが承となってしまう。

で、承に何をするべきか分らなくなってしまうのが、
起承転結型でプロットを作ろうとした時の欠点だ。

そこで、まあ適当にやるかとできる人はいいけど、
大抵の人は、
何をすればいいか分らなくなり、
「起を受けて展開する」というようないい加減な説明を真に受けて、
なんとか展開しようとして、
そのうち何が何だか分からなくなる。
(そして、たいてい挫折する)

だから僕はこの理論を物語作成に使うべきではないと、
警告する。

起承転結の中にまた起承転結があるのだ、
なんて詭弁も何も分っていない、と批判する。
書くものにとってそんなもの、何の役にも立たない。

ストーリーには、極端にいうと、
起承転結はなくていいと思う。

事件を解決する焦点において、
進展と、次に焦点が移るターニングポイントが、
面白く連続していればいいと考えている。

それを全体で見ると、
「全体のセットアップをしているまだ序盤で、
センタークエスチョンが見えたあたり」
までを起とし、
そこからクライマックスにあたる部分を転とし、
解決シーンからラストを結とすればいいだけのことだ。
そのほかはすべて自動的に承になってしまうだけのこと。
書き終えれば、そこが承になっていることが俯瞰できるけど、
書いているときは、
とにかく焦点を追い、
面白くターニングポイントで次の焦点へ誘導する、
それだけをやっていかなければならない。

承の中の書き方は、承は教えてくれない。


もちろんその中には、
順目の展開もあれば、逆目の展開もある。
起伏もあるし、裏切りもあるし、期待に答える展開もある。
本線もあれば別のサブプロットもあれば、
分岐や合流もある。
そういうことを、承は教えてくれない。

だから、起承転結なんて、
糞の役にも立たないよ。


起承転結は、もともと漢詩の理論だ。
4行形式の詩を、
一行ずつ役割がある、ということを述べただけである。
2行目は順目で、3行目は逆目、
ということを言っているに過ぎない。
こんな単純なものの構造と、
ストーリー構造をいっしょくたにしている段階で、
起承転結なんていうやつのいう事なんて信用できない。

(4コマ漫画は適用できる。4コマしかないからね。
100コマある漫画の、
25コマずつが起承転結にあたるだろうか? 否だ)

と、いうことで、起承転結で物語を設計しようとしないことだ。
これで成功できるとは、僕には思えない。


面白いことをひたすら繋いでゆき、
落ちまで書き終えてから、
全体を三幕構成理論でページ数調整したほうが、
まともな話が書けると思うよ。
posted by おおおかとしひこ at 09:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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