2018年12月25日

予兆のほうが本編より面白いと感じる(「来る」批評2)

予告のほうが本編より面白く感じる、
第一話のほうがシリーズ全体より面白く感じる、
オープニングのほうが全体より面白く感じる、
CM第一弾「〇〇、始まる。」のほうが、
その後のシリーズより面白く感じる、
ということは、
とてもよくあることだ。

これは、ざっくりいうと詐欺行為である。

(以下、重大なネタバレ無しで批評)


僕はスピルバーグの「ジュラシックパーク」
のティーザー予告が凄い好きで、
コップの水を写しているワンカットなんだけど、
Tレックスの足音に応じて、振動するだけなんだよね。
(これはのちにハリウッド版ゴジラでもパクられた演出法)

「現れないのに、その予兆だけでワクワクする」
ということがこれの本質だ。

人には想像力がある。
そのものを見るより、
わずかな情報から想像した時のほうがいい感触を得たりするものだ。
(これを僕は、「パンチラのほうがパンモロよりいい」
という単純な言葉で表現している)

これを予兆効果と呼ぶことにしよう。

実は、CMの演出は、
予兆効果を沢山使うことに長けている。

たとえば俳句もそうだろう。
「古池や蛙飛び込む水の音」は、
古池という「点」から全体(池のしずけさ)を
目立たせるための、予兆効果を使ったものだ。

短いものは予兆効果を使うことで、
全体を大きく見せることに長けている。

それを表現ともとらえられるし、
逆から見れば、はったりだということも出来る。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で示されるように、
そのネタバレをみたらしらける、
ということもよくある。

出オチはこの予兆効果から落胆の最たる例である。
「こいつはやるぞ」と、出た瞬間の期待がピークであり、
予兆のみで判断して、
その勢いから想像した本編が、
まったくその期待に応えるものになっていないものをいう。


つまり、
予兆がうまくできたときは、
本編を隠すのがよい。

おまんこが臭くても、
パンチラならば夢を見られる。


さて。

「来る」は、まったくそのような予兆に満ちたものばかりで、
まったく本編がない、
という稀有な例であった。

何かが「来る」と言わせておいて、
その正体は最後まで出てこない。
出てこないことによって想像を極限まで高める、
という恐怖のあおりかたであった。

形式が何かに似ている。
「桐島、部活辞めるってよ」だ。

桐島は一回も出てこない。
しかし皆は桐島がいる前提で行動している。
桐島はマクガフィンだ。

そう。
この映画は、
妖怪なのか怪物なのか幽霊なのか神なのか、
なんだかわからないものを、
マクガフィンとして、
そこで右往左往する人々を描こうとした、
という構造になっている。

ここに僕は、安易さを透けて見通してしまう。

「桐島」が受けたから、
同じ構造をホラーでもできるやろ、
という安易さだ。
怪物をマクガフィンにしたら予算もかからんやんってね。


ホラーは予兆を描くことで、
恐怖をあおることができる。
出るぞ、出るぞ、という想像のほうが怖かったりする。
人は何もない暗闇にこそ恐怖を感じるわけだし。


つまりこの映画は、
すべて「予兆」だけの映画だ。
で、とにかく終わった、という映画だ。

それがなんなん?


「桐島」は、
いろいろの騒動の結果として、
それぞれの登場人物が変化した。
(いや、たいして変化がなかったのが、
僕が批判している部分だが)

この映画は、誰が変化した?
岡田准一だけだ。
しかもそれはたいした変化ではない。


マクガフィンだろうが、なんだろうが、
登場人物の変化こそが映画であり、
その映画のテーマになる。

じゃあこの映画のテーマってなに?
過去の失敗(または誤った判断)を償う、
ということしかないではないか。

過去の失敗を償うのが、このモチーフに最適な物語であったろうか?
僕は否だと思う。
まるで取って付けたようなものに見える。
ストーリー的な何かをつけないと格好がつかないから、
無理やりつけた感じに見えた。

それくらい、
この映画はストーリーがない。

登場人物の悪人減のネタバラシや、
時間経過はある。
結婚から子育て、怪物退治が時計代わりになっているしね。
しかし、ストーリーがほとんどなかった。
外面的な時計は進んでいるが、
それはすべて「予兆」でしかなかった。

で、ネタバレしたら、
枯れ尾花でしかなかったという事だ。


予兆という言葉を使ったのはわざとで、
予兆という英語がタイトルの「オーメン」と、
比較しようと思ったからだ。

オーメンは予兆というタイトルでありながら、
悪魔復活を止める神父の話になっている。
しかし、実際の所、これには人間的なストーリーはほとんどない。

悪魔祓いという当時としては斬新なモチーフがよくて、
ブリッジしながら階段を下りてくるとか、
百八十度首が回るとか、
腹に「HELP」とみみずばれで出来るとか、
「666」は獣の数字とか、
そういうディテールの面白さが話題になった。
つまり、オーメンはガワの映画である。

ガワにしては、特撮と音楽と世界観が完成度が高く、良かったのだ。

翻って「来る」も、同じ穴の狢だが、
全然ガワが面白く無い、ということを言おうとしている。

CGでなんでも出来る世の中だから、
どんなガワも、もはや魅力がない時代になってしまっている、
と僕は思うのだ。

もしこれがアナログ時代であれば、
映画史に残るガワのアイデアを考えつかないとディテールとして面白くないから、
何かアナログのアイデアを思いついていただろう。
それがすごく面白いなら、
ガワの映画として、映画史に残ったかもしれない。

しかし、デジタルになって、
なんでもできるようになってしまったが故に、
こんなディテールではまったく喜ばない客がいるわけだ。

何かこの映画で記憶に残るワンビジュアル、あった?
芋虫よかった? 全然記憶に残らない。
テーマ音楽を聴いたらこれを思い出す?
どういう音楽だったっけ。全く思い出せない。
チューブラーベルの名曲ぶりに比べて、ぜんぜんやんけ。


予兆の得意なCMディレクターを使って、
ガワを予算を安く使ってつくり、
中身のないはったり映画をつくって、
あとは有名芸能人を集めれば商売として成立するとした、
プロデューサー川村元気は、
見積もりの甘さで腹を切るとよいだろう。


あ、
クライマックスの、
「血が松たか子をよける」というのは、
すごくよかったです。
もっとこれをうまくイコンにするようにもっていけば、
つまり序盤からこれをやっていれば、
これがこの映画のアイデンティティーになっていたのに。

つまり、この映画にはイコンがなんにもないのだ。

ハッタリこそが予兆なのに、
イコンがないのが、この映画が、
なにもかもペラペラの証拠である。

そろそろ川村元気には死んでほしい。
安直な企画で、
映画文化を崩壊させないでほしい。
才能の塊である中島哲也を絵描きにしか使っていない、
無駄遣いをしないで欲しい。

僕らはCGごときには、
なにもこころが動かない。

デジタルホラーはほんとうにつまらない。
PayPayで収支が合わないほうが、ぜんぜん怖いわ。
posted by おおおかとしひこ at 15:37| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
前の記事でも思ったんですが
ブリッジしながら階段を下りてくる映画って
エクソシストじゃないんでしょうか
Posted by お名前 at 2018年12月27日 01:03
お名前さんご指摘ありがとうございます。

批評3で訂正しておきました。
オーメンとエクソシストのタイトルをどうも逆に記憶しているようです。

Posted by おおおかとしひこ at 2018年12月27日 11:33
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