2018年12月25日

プログラムピクチャー(「来る」批評3)

もはや邦画は、プログラムピクチャーしか無くなってしまったのか?


映画を分類するとき、
A級の大作、
予算は大したことないが内容はA級の佳作、
予算は大したことないが、それを逆手に取ったB級の快作、
糞、
予算は大したことないが、上がりが読めて固定客がいるやつ、
に分かれると思う。

最後のものをプログラムピクチャーなどという。

アイドルがでるやつ、
ヤクザもの、
刑事もので爆発したりアクションするやつ、
なんかの、
「定番だけど、パターンだし、
でもちょっと新味があったり、
好きな俳優が出てるからみる」
というジャンルのものだ。

「ホラーだったら何でも見る」みたいな固定客のいるやつ。
永ちゃんなら絶対聞くぜ、みたいなやつ。
日常系アニメなら何でもOK、みたいなやつ。
時代劇だから老人は何でも見る、みたいなやつ。
スイーツ系働く女主人公だからOLが見る、みたいなやつ。


それは、「新しさを更新する」ことは期待されない。


プログラムピクチャーのつもりだったが、
いつのまにか安定した収入を誇り、
ドル箱どころか東映の屋台骨を支えることになってしまった、
仮面ライダー系映画も、
内容の出来や新規性はおいといて、
プログラムピクチャーだ。

いつも同じプログラムをやっている、
という意味が語源だろう。


僕は中島哲也は、
プログラムピクチャーなんて作ってる場合の人ではないと思う。
にも関わらず、
プログラムピクチャーを作らされ、
絵やサウンドはとてもいいのに、
内容が箸にも棒にもかからないようなものを作らされているのが、
なんとも歯切れが悪くてむかつくのだ。

監督の才能は、
しかるべき場がないと発揮できず、
場を作るのはプロデューサーの仕事だ。

もはや、監督がプロデューサーにならない限り、
監督の才能の発揮の場所はないのだろうか?

ナカテツですらそうなのに、
俺はどうすりゃいいんだ。


あるいは、
進撃降板後の東宝だから、
再び東宝と組むのかどうかの試金石で、
そこそこの予算で様子見をされた可能性もある。


というような、
読み方をしない限り、
この映画は何一つ面白くない。


東宝のやり方は、曲がり角に来ている。
プログラムピクチャーを求める客は、
いまユーチューブを見てると思うよ。



前記事で、オーメンとエクソシストを、
タイトルを逆に覚えていたことに気づいた。
666のダミアンがオーメンで、
神父対首180度はエクソシストだった。
ここに訂正するが、
記事の論旨を変えようがないので、
エクソシストをオーメンというタイトルだったと思って、
読んでいただきたい。
posted by おおおかとしひこ at 23:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。