ネットが最初できたとき、なんていい機能なんだと僕は思った。
リンクなる機構によって、あらゆる知識を結び付けることができる。
あらゆるリンクをたどることで、
単体で存在する知識を網羅的に、全体的にとらえることができるではないか、
と考えたのだ。
これは学術的には、参考文献によって網をつくり、
それらの中でどういう意味があるのかを考える、
という相対的な意味合いがある。
たとえば映画を見て感動した。
主演俳優がよかったのだろうかと思い、
その俳優の主演する別の映画を見る。
そんなによくない。
しかし、同じ監督で辿ってその監督の別の映画をみたら、
よかったこともある。
ということは、映画は主演ではなく、
監督で決まるのではないか、
ということを、僕は自分で知った。
同様に、
カメラマンで映画を辿り、
この監督はこのカメラマンと組んだ時しかよくないとか、
このカメラマンはこの監督と組んだ時しかよくないとか、
この衣装の人はこの監督と組んだ時だけよいとか、
衣装でストーリーは影響をほとんど受けないんだとか、
音楽で辿って行ったりとか、
そのようにリンクを辿ることで、
映画がどうやってできているか、
自分で調べたものである。
こういうことは研究の基本だと思う。
学術的なことだけではなく、
これはどうなっているんだろう、と思えば、
関連するものを調べるのは当たり前だ。
点ではなく、線で、面で、網で知識は増えていくものである。
言葉も同じだ。
英単語を引くときに、
求めている意味だけを調べて満足するのはレベルの低い勉強である。
その単語の他の意味をすべて読み、
それがどういう領域の言葉なのか知り、
例文を読み、熟語まで理解し、
あるいはそこで出てくる言葉もまた引いていく。
最初調べる点が、線、面、網へと変化し、
ひとつの言葉が点ではなくネットとして記憶されていく。
ひょっとしたら、それは賢い人しかできない事かもしれない。
ネットの黎明期を支えた人たちはそういう人たちばかりだから、
半年ROMれとか、ググレカスとか、
自分で網を構築しようとしない人は、
軽蔑の対象だった。
理系の論文検索や、参考文献を参照するためのハイパーリンクとして、
大学や研究室に最初にネットが整備されたことは、
歴史的に知っておいたほうがよいことだ。
(もちろん民間用としてね。最初は軍事用だったけど)
書店で探したり、古本屋で探したり、
手間をかけてリンクをたどることに比べ、
ネットのリンクは飛躍的に手間を減らした。
だから、意欲と検索力のある人にとっては、
ネットサーフィンは最高の知的冒険になる。
(いまでもWikiめぐりはそういうことを体験させてくれるよね)
ところが。
ネットが大衆化するにつれて、
かしこくない人もネットを使うことになる。
自分から調べることが基本だとは思っていない、
与えられるだけの受動的な人たちだ。
彼らはリンクを辿らない。
その先に待っていることに恐怖する傾向にある。
騙されるのではないか、と、ドアを開けない原住民のようだ。
信用する人には心を開く。
だから、ネットで面白いものを見つけたらシェアはする。
ネットからこの現象を見ると、
賢い人達は、リンクをたどって移動し続ける。
賢くない人達は、同じ所にいたまま、シェアで情報を拡散する。
拡散はコピーが出回ることだ。
アナログとちがってデジタルコピーは劣化しないから、
ネットから見たら、
同じものが増え続けていく。
こうして、多様性が失われるのだ。
大腸菌が同じDNAに収束してしまったように、
ネットにあった図書館のような多様性は、
同じ情報のコピーというノイズに、
埋もれてしまったかのようだ。
シェアは馬鹿でもできる。
リンクは目的意識と整理能力のある賢い人しかできない。
で、結局バカが同じものばかり拡散して、
消費だけされていく。
ネットを発明した人は、
賢い人だった。
リンクをデジタル化することで、
アナログのリンク探索の手間を一気に省略した。
しかし、使用する人は、
そこまで賢くなかっただけのことだ。
こうして、
リンクというネットサーフィンは、
シェアという拡散に埋もれていく。
かつて個人HPが盛んだったころは、
そのような賢い人達がリンクされるネットの、
ノードを作っていた。
それらを支えていたサーバは、
商業的にもうからないとして、次々に閉鎖されていく。
商業的にもうかり、アクティブなのは、
呟きや画像をシェアし続けるだけのものになっている。
シェアは学習や成長や進歩を生まない。
むしろ、点を消費しておしまいになる。
消費の速度は、シェアによって速まってしまい、
なにもかも寿命が短くなっている。
デジタルは一見幸せを提供するように見えるが、
結局は悪貨が良貨を駆逐しているだけになっている。
デジタルが人を幸せにしている量より、
不幸にしている量の方が多いような気がする。
そして、アナログにはもう戻れない、
という状況が、デジタルの一番の闇のような気がする。
シェアする馬鹿になるな。
リンクをたどり、賢くなれ。
じぶんで探し、じぶんで考えなくては、
オリジナルにはなれない。
シェアをシェアしているだけでは、
コピーされた流行りの定型になるだけだ。
たまに古本屋にいくと、こういうことを考えてしまう。
2018年12月28日
この記事へのコメント
コメントを書く