なるべくそういうものにしよう。
それは、単なる逆張りを意味しない。
よく言われるのは、
「犬が人を噛んでもストーリーにならないが、
人が犬を噛むとストーリーになる」
というやつだ。
これは、
「普段よくあるものと逆の発想をすると、
そこにストーリーの種が潜んでいる」
ということを意味している。
しかし、人が犬を噛んだだけではストーリーにならない。
それはストーリーの中の点にすぎないからだ。
何故人が犬を噛んだのか。
それから何が起こったのか。
誰がどういう反応をしたのか。
どういう展開が次にあるのか。
そして最終的にはどうなったのか。
最後に、人が犬を噛んだことに、なんの意味があったのか。
これらが揃って、
ようやくストーリーになる。
起承転結理論において、
承は順目の展開、
転は逆目の展開、
と考えることができる。
結は、その逆目の意味をあかして、
なるほどねと思わせて、
はじめて落ちになる。
ただ単なる逆張りは、
人目を引くだけで終わってしまう。
その逆が、
なるほどねという意味を生じる、
落ちこそが逆目とペアになっていることに留意されたい。
単なる逆張りはバカでもできる。
人が犬を噛めば簡単だ。
しかしその後の展開やその落ちがなければ、
それはストーリーではなく、
単なる目立ちたがりでしなない。
何イィ!と驚かせたら、
なるほどおおおと納得させなければならない。
「一見意外なぶっ飛んだものに見えるが、
説明されると腑に落ち、
なるほどよく考えられてある、
常識に凝り固まった頭ではなく、
柔軟にものを見て本質を掬い上げるべきだなあ」
というようなことを思う時、
「その発想はなかった」
という感想が出てくる。
そういうものをつくろう。
逆張りだけして、
ケツを持たなかったものに、
「ファイアパンチ」がある。
逆張りは若者の特権だ。
恐れを知らぬ者が無謀につっこむ。
問題はケツを持たなかったこと
(落ちを誤魔化している)で、
僕は一生これを晒しものにする。
今までやっていた悪行を、地球破壊によって全クリして、
ビッグマザーに抱かれておしまい、
という赤ん坊のような責任放棄を僕は許さない。
この失敗作を見て、
「責任のない逆張り」の反面教師とするべきだ。
2018年12月30日
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